茂木 草積大明神 |
「茂木」は天草・五島・大阪行きの帆船が出入りし、漁港として栄えた。
北浦にある玉台寺は宝誉という和尚が、島原地震のとき打ち寄せた死骸を埋め、塔を立て開山したといわれる。
草積夫人は、島原に竜造寺隆信が行った時に魚師の女に生ませた子で、ここで亡くなり、草積野に祠を作り葬
った。千々村に漂流して舟を上がる時に自分が死んだら海の見える高い山に葬って五輪の塔を建ててくれと魚
師に頼んだのである。一時は塩見崎にあったのを今は玉台寺の境内に移し「草積大明神」として祀っている。
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甑岩と 飯香の浦 |
甑(こしき)岩と飯香(いか)の浦。三韓征伐のとき、神功皇后が茂木にお着きになった。皇后は三韓の見える高
いところはないかと訪ね、土地の人に案内されてこの岩の上に立った。丁度、正午時、皇后さまは甑岩で昼食
のご飯を焚かせた。その香りがよかったので浦の人たちは「飯香の浦」と呼んだ。
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| 八郎岳 |
野母への途中、「土井ノ首」という、港の首ねっこにあたるところに596mの山があり、この山頂には「
鎮西八郎為朝」が登って座ったという岩がある。そこで「八郎岳」の名がついた。「竿ノ浦の落矢」はその
とき為朝が射た矢の落ちたところだそうだ。
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| 香焼島 |
「香焼(こうやぎ)島」は弘法大師がむかし入唐のおりにこの島に17日、護摩を焚いて逗留し、その煙が天
に立ちのぼったことに由来する。護摩を焚く壇に用いた岩のくぼみを人々は拝んだという。そこに「寿正寺」
を建て、本尊として円覚法師の作った聖観音を祀った。
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| 伊王島 |
「伊王島」はむかし、新羅討伐のおり、軍船を整えるためこの島の船津に寄港し、美しい島の風光を賞して
祝詞を賜った故事にちなんで「祝島(いわうしま)」と呼ぶようになった。あるいは「硫黄島」と呼ばれ、そして
「伊王島」になった。
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党類全益 カネシカ大明神 |
不死身の全益のこと。天正(1573-91)のころキリシタンの「党類全益」が深堀にやって来て、村の菩提寺竜珠庵(
りゅうじゅうあん)の住僧を追い出し、自ら庵主になり非行悪事をはたらいた。藩の家老峰権兵衛は、山口造酒(
みき)、小宮新介に追い払わせようとした。二人は戸迫部落の岩ノ川で田仕事をしている全益にこの機会にと迫っ
たが、全益は太刀を鞘ぐるみのまま造酒を斬った。新介も危くなったところに権兵衛が駆けつけ全益を討った。
全益は皮膚の厚さが1センチもあり、鞘のままでも斬れる「仁王三郎」という名刀を持っていたのである。この
刀は神崎原の御神に奉納された。いまの長崎港の女神で「カネシカ大明神」という神さまである。
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| 川原の池の伝説 |
三和町の「川原の池の伝説」もよく知られている。海水と真水が豊かで美しい川原の池は周囲2000メートル
におよぶ。ここには河原権現の池の御前神社を祭祀している。
むかし、汚池(おち)という美しい女が大山の楠を毎日毎日大切に可愛がり育てた。ところが大蔵大輔高満という
男が落ちのびてきて、高満はその木を伐り船を建造した。進水式のとき、何人かかってもその船が動かない。
亀策という知恵者があの汚池を呼べ、「汚池なら動かせる」と言ったので汚池が呼ばれた。汚池が船に手をかけ
ると不思議や船は動き出し海岸から数里も行ったかと思うと、一天にわかにかき曇り、豪雨に砂礫が加わり、山
は震え地は裂け船は沈んで海中の池となった。そして朝夕この池に妖怪が現れ村人を悩ました。高満は悲しみ、
阿闍梨知行(あじゃりちぎょう)を招き池の上に壇を築き火を焚き、お祈りを何日もあげた。すると汚池が来て「
私の姿を見た者を恨み祟る」と叫び池に沈んだかと思うと、竜に変身した姿を現した。角が5本、赤い舌は舟の
ように5丈(約5メートル)もあった。しばらくして前の汚池の姿に戻り、阿闍梨知行を顧みて「今日から私を尊べ」
と言い残して池に没した。それで神社をつくり、池と川祭りをするようになった。
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