「長崎市内とその周辺の伝説(その4)」のページ

川端通り〜立山〜眼鏡橋〜万才町 (桃渓橋不動さま、光源寺、幽霊井戸、興福寺、こう台寺、崇福寺、清水観音、眼鏡橋、大音寺坂 、身代天神さま、唐人屋敷、幽霊堂、金鍔谷、唐人塚) までの伝説です。

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桃渓橋不動さま
諏訪神社前から桃渓橋あたりが唐蘭文化の華やかな川端通りで中島川沿いの春の桃の花は 格別。「桃渓橋不動さま」は橋の側にある。この不動は大火の時も半身だけしか焼けなかった。 それで防火の神さまとして崇められ、この不動さまに乳首を奉納すると乳が出るというので 乳首があげられている。
光源寺
幽霊井戸
あみだ橋を越していくと「光源寺」である。寛永11年(1634)に日本最初の洋式天文学者 十時松吟がキリシタン排除のため開いた。ここに「飴買い女の幽霊像」がある。像は鉄の 芯に粘土をつけ紙をはって作り、朝鮮カモジの長い髪をニワカづけにし、目にガラス玉を 光らせ、うらめしそうな相をしている。この幽霊像は細川侯のお抱え大工藤原清水の作だ と伝えられる。寺町の方へ10分ばかり歩くと麹屋町局。その前の石畳の道路に、今も水 を引いているらしい井戸の跡がある。これを「幽霊井戸」という。そこに飴を買いに来た 女の幽霊が、お礼に水の出る場所と教えたという。昔の寺町通りに10余りの寺院がある。 これはほとんどキリシタンに対抗するために興亡を繰り返し、永禄・天正年間(1558-92) にはキリシタン信徒の焼き払い等の破壊が続いた。天正16年(1588)豊臣秀吉の長崎没収 、キリシタン弾圧により、寺院が建つようになった。
興福寺
「興福寺」の三江会所門は県の重要文化財、大雄宝殿は唐風建築で国宝、貴重な文化財である。 全て建物が朱塗りで赤寺とも呼ばれる。元和6年(1620)に唐僧黙子如定が建てた、あるいは元 和9年(1623)唐僧真円が創始したともいう。この地は祈祷所で航海の安全とキリシタン文化に 変わり黄檗(おうばく)文化の発祥地として中島聖堂、孔子廟とともに中国文化に縁深い寺で、 承応3年(1654)、明の高僧隠元(いんげん)を招いた。「初登宝地」はじめて宝の地に登るという 額もあり、まそ堂、鐘楼ほか魚板が飾ってある。魚板を寺につるすのは、魚は夜も目をつぶらない 不断の精進を怠らず、だんだんに出世し昇天すると竜になるという故事による。また本堂の三官 大帝の神像は唐からもたらされたもので生き身として深く信仰されている。その証拠に御神体の 中から雄鶏の足音が聞こえるという。この神が幸福を授けるという唐の伝えによるものである。 この境内は隠元が豆の種を栽培した隠元豆(いんげんまめ)の発祥の地である。
こう台寺
諏訪から立山あたりは、昔は鬱蒼とした森で、その森に治郎兵衛狐という化け上手な狐がいた。 ある日、こう台寺の和尚と小僧が鍛冶屋町で賑やかな大名行列に出会い、みんな土下座している のに出会った。和尚は一人突っ立って「治郎兵衛、治郎兵衛」と呟いていた。長崎の町に鍋島藩 や黒田藩の武士が行列するのは元々妙なのである。その晩、治郎兵衛狐が来て、「あんなに上手に 化けたのにどうして和尚さんは分かったかな」と尋ねたという。そこで、「こう台寺に祠」を祀っ た。この寺には砲術で秀でた高島秋帆の墓もある。 「こう台寺」の「こう」は「白へんに告」と書く。
崇福寺
「崇福寺」は竜宮門という三門をくぐると第三峰門は赤門、寺門、海天門等と別の呼び名がある 華美な門。大雄宝殿は本堂で黄檗天井はアーチ型天井、そま門がある。そま門は海上安全を祀り 、国宝で殿堂内の十八羅漢とか仏像仏具類は明文化を顕現している。おのおのの建物の建立は 寛永6年(1629)、正保3年(1646)、文政10年(1827)と異なっている。この寺の大釜は天和2年 (1682)大飢饉のおり千献和尚が私財を投じてつくり、四石二斗(約760リットル)の米を一度に 炊き出し、難民の救済にあたったものである。口径六尺一寸(約185cm)、深さ五尺七寸(約 74cm)、重量は1965斤(約1180キロ)の日本一の大釜である。ここの中国盆は各地の 信者が集まり、故郷をしのんで祖先を祭る由緒深い行事である。海図も羅針盤もなかった南蛮・ 唐・紅毛の貿易船は神だのみであった。オランダは聖母マリア、唐は天后聖母まそ、どちらも 女神である。「まそ」は建隆元年、今から1000年以上むかし福建省に生まれた。あまり長く 産声をあげずまわりの者を心配させたが8歳で香をたき読書をし、13歳で遊典秘法を身につけ、 25歳で、び州の岬から白日昇天した。朱衣をまとい、島々の間を飛び交い、海路の人々を守った。 それから行く手の船は安泰になったと言い伝えられている。「崇福寺」の「まそ(女へんに馬、 女へんに祖の右側)」の天后聖母の彫刻はそういう伝えである。
清水観音
八坂神社には、むかし、樹齢数百年の老樹の下に霊験の石の祠があり山伏の修行の場であった。 しかしキリシタン宗徒が、広まり祠は破壊されキリシタン宗以外の人は苦しめられた。キリシタン 禁圧令後、寛永15年(1638)祇園宮ができ、明治元年(1868)に八坂神社に転向した。7月23日、 28日が祇園祭で市民の夏祭り。その隣りの「清水(きよみず)観音」は安産・子授けの仏さまで 堂の前の円い陽石に立って祈ると願いが叶うという。元和元年(1615)慶順和尚がある夜、東方に 妖しい白い光をみつけ、翌朝探すと大きい石から光が発していた。これは観音さまのお告げだと 喜んでそこに「清水寺」を建てたという。
眼鏡橋
中島川は市民に親しまれる唐風の石橋のある川である。「眼鏡橋」は国の重要文化財で日本最古 の唐風の石橋である。この橋は寛永13年(1636)に完成したアーチ式の石橋で数回も大洪水にあ った。だが、完全に破損しないのは橋の下に大亀がこの橋を守っているからで、この霊亀を見た ものもいるという。昭和57年の大洪水の時も橋の上の方は壊れてしまったが、アーチ部分は びくともしなかった。それは、長崎市民が今まで見た事も聞いた事もない激しい雨の降りようで あった。昭和57年(1982)7月23日に長崎地方を襲った湿舌現象による未曾有の集中豪雨は、 長崎市を中心に、犠牲者299名、被害総額3154億円という甚大な被害をもたらした。 都心部被害では中島川の眼鏡橋が元凶となって氾濫、水害が起こった理解も一部にされているが 実態は中島川の支流であるシシトキ川・銅座川の氾濫の影響が大きく、また満潮時と重なった為に 江戸時代以来の埋立地である浜の町や築町の浸水被害が大きかった。
大音寺坂
万才町の長崎地方法務局側の坂の上天満宮は、それ以前大音寺があった。それで「大音寺坂」という。 元禄13年(1700)12月19日、当時貿易成り金で奉行に匹敵する権力を持っていた町年寄高木彦右 衛門が西浜町にいた。その下男に悔辱された深堀藩士との血闘がのちに行われたが、赤穂義士の仇討 の手本となったとの伝説がある。
身代天神さま
梅園天満宮には次の伝説がある。元禄のころ安田治右衛門という丸山の乙名がある日帰宅途中に梅野 五郎左衛門という男に槍で左脇腹を刺された。五郎左衛門は首尾を遂げたことを確認すると帰宅して 自殺した。人々が治右衛門を起こし介抱すると着物は裂け血は流れているのに傷がない。奇妙に思い よく見ると天満宮の扉が自ら開き、天神さまのご尊像の左脇に傷があり血が流れていた。人々は驚き これを「身代天神さま」と呼んだ。治右衛門は信仰に厚かったので、元禄13年に拝殿を建てて祀った。
唐人屋敷
幽霊堂
「唐人屋敷」は稲荷岳(佐古小の丘)と天神山の丘の谷間を高い練塀で囲み、その外側に深い掘割をめぐ らせ竹矢来を立てていた。元禄2年(1689)鎖国により宗教・貿易・風紀の取り締まりのため隔離された。 今は「まそ堂」とアーチ型の石門がある「観音堂」がある。「幽霊堂」はその近くにあったそうで、今は もうない。唐人の間では死んでから幽霊になって出て来ないものは、人並み以下だとさげすまれていた。 死んでからまで馬鹿にされた。それも唐人の幽霊は上半身とか下半身とかいうものでなく、一身全備し 履物の響きまでさせないと一人前でない。幽霊にあったら「ハジメテキタボヲシユンコラユウヨカ」と 口ずさめば、祟りを受けなかったと伝えられている。
金鍔谷
「金鍔(きんつば)谷」はキリシタン次兵衛が隠れていた岩穴で祠には小さな地蔵さんを祀っている。 ある密告者によって捕らえられ、西坂に首を吊られたが三日四晩死ななかったそうだ。彼の死骸は 伊王島の沖に捨てられたと伝えられている。
唐人塚
「唐人塚」は茂木街道の坂道にある。この坂は俗称「ピントコ坂」と呼ばれ、「びん(日冠に文)徳」 のなまった呼び名である。可びん徳は寛永のころ唐の杭州から商人として長崎に来た。杭州で柳氏 というかわいい娘と許嫁であったが、大守という役人に柳氏を奪い取られ、故郷を捨て叔父を頼りに 長崎へやって来たのである。びん徳は立派な若者になったのに、どんな女性をも嫁にすることを拒んだ。 ある正月、丸山遊廓に酔って迷い込み筑後屋という店で柳氏によく似た遊女を見つけた。熱中した びん徳はその阿登倭(おとわ)という女に通いつめ、良い仲になった。ところが阿登倭に惚れた町乙名 がびん徳を陥れるため、ぶん徳は贋金作りだと流言した。貿易港長崎では唐銭とか贋金が出回っていた。 ついにびん徳は西坂で処刑された。哀れんだ阿登倭は願い出て西坂から「可びん徳」の死骸を引き取り 小島の坂に墓を作って手厚く葬り、後追い自殺をした。「傾城(けいせい)塚」、通称「おいらん墓」と もいう。
参考文献: 日本の伝説28「長崎の伝説」:福田 清人、深江 福吉著(角川書店)
      わが町の歴史・長崎    :外山 幹夫他著     (文一総合出版)
            長崎新聞の切り抜き(20数年前、日付不明)
      NBC長崎放送での放送のメモ書き(10数年前、日付不明)


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