| 河童石 |
「河童石」は本河内の水源地の下にある。5月5日の深夜に、この水神社の戸を閉めた
本堂に沢山の河童が集まってくる。ある時、神主は河童達に御馳走をして、その中に
竹の輪切りを入れておいた。そして神主自身の分には竹の子を入れておき、河童達の
面前で食べてみせた。河童は神主が竹の輪切りを噛み砕く強い歯を持っていると思って
ビックリし、人間は強いと感心していたずらをしなくなったそうだ。
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| 日見峠 |
「日見峠」には、化け方の上手な狐が住んでいた。金儲けを企んだ男が、「御馳走する
から化けてくれんか」と誘い、6匹の狐に17、8才の美しい娘に化けさせ、丸山の遊廓に
女郎として売った。翌朝、立派な絹蒲団に大きな狐の尻尾が6本出ているので、上を下
への大騒ぎになった。また、長崎から旅立つ者の別離の場所が日見峠であった。そこに
彦山崖をくり抜いて日見トンネルを開通させた。大正15年(1926)3月竣工、人道隊道
として全国最長であった。
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| 腹切坂 |
行基菩薩の観音寺を過ぎると「腹切坂」につく。文化5年(1808)英艦フェートン号の
撃攘に失敗した長崎奉行が責任を負って自刃したところという。また、平家の落武者
作左衛門は棒術の達人と名高かったが、ある日、網場の漁師から五尋(約9m)の舟を
大村湾の喜々津から網場へ運んでくれと頼まれ、一人で舟を担いでいった。しかし、
途中で熊本の細川侯の家臣から一手の試合を申し込まれ、惜しくも負けた。無念やる
かたなく部落の見晴らせるこの坂で切腹したと伝えられている。
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| 矢上神社 |
弘安4年(1281)ある村人が夜毎に光るものがあるのを不思議に思い探してみると、
それは一振りの宝剣で、神さまの矢に違いないと言うことになった。これが「矢上」
の地名と「矢上神社」の起こりである。また、「鎮西八郎源為朝の弓矢」と関係がある
とも伝えられている。「矢上神社」は大永2年(1522)素盞鳴尊(すさのおのみこと)、
大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を諫早領主西郷石見守
が祀ったのが起こりで、大正3年(1575)鎮守社となり、寛永14年(1637)の島原の乱には
戦勝祈願がなされた。明治5年(1872)現在の矢上神社になった。八郎橋は鎮西八郎源為朝
が川を渡って橋を架けさせたという伝説がある。橋の東側の祠に八郎を祀って「八郎どん」
として親しまれている。
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| 樋口次郎 |
矢上橋近くに、筋骨隆々とした丈高く力持ちの智勇兼備の「樋口次郎」という大将がいた。
刀も弓矢も歯が立たない。戦っても一度も敗れた事がなかった。敵の大将は「樋口次郎」を
倒すため奇策をめぐらし、彼の母親に「ご子息はわが相手として不足のない大将であったが、
今度の戦いでついに討ち死にされた。まことに惜しいことであった」と家来を遣わし言わせ
ると、母は敵の計略に気づかず、「わが子は体は弓矢も通らぬほど堅かったが、右の脇腹に
ただ1ヶ所、梅干し大の柔らかいところがあった。不幸にしてそこに致命傷を受けたのであ
ろう」と泣き悲しんだ。敵はこれを知り、その後の戦いで右脇腹に的を絞り「樋口次郎」を
討ち取った。矢上橋の近くを「樋口渡瀬」といい、城山と合戦岳との戦争があったところで
ある。
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| 滝観音 |
「滝観音」は弘法大師が入唐の帰途、この滝に打たれながら妙法を加持すると、水の流れが
たちまち止まって岩の面が表れた。岩の平らな所に座り、虚空に向かって禅定し、その滝の
真中で観音の尊像を刻んだ。これを「滝の観音」という。霊験の場とし、長崎人や唐人も
参詣し、異国の飾り物等を寄進したりしている。万治2年(1659)7月、唐人許登受が財貨を
積んで長崎に向かう途中、台風にあい船が沈没しそうになったとき、黒雲からこの滝観音の
女神が現れ、風を鎮め、雨をあがらせたので船は無事長崎に入港できた。早速この霊験に感
謝し観世音像を奉安した。その後も宝永2年(1705)の前後に石像観音数百体が納められ岩石
に十八羅漢が刻まれた。巨樹の根の伏樹門があり、この伏樹を100回くぐれば脳病やノイ
ローゼも治癒するので「不思議門」とも呼ばれている。
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| 古賀人形 |
郷土玩具の「古賀人形」は長崎街道の古賀藤棚の小川さんが窯元で、その起こりは
文禄年間(1592-96)という。人形のあちゃさんの鶏は、唐の国でむかしから雄鶏は
不死長寿の嘉鳥であるという土俗信仰からきている。その嘉鳥を食べると幸福になる
という。またフクロウはその泣き声で晴雨を知るという農耕神話から、猫は幸福を
招き入れる、また猟の騒乱を防ぐ利器と考えられた。猿は山王権現の使いとして疫病
を祓い安産の神として祀られた事による。
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