「長崎市内とその周辺の伝説(その2)」のページ

西山〜蛍茶屋 (弁天さまと大黒さま、松森神社・西山神社、水源地の神木たん、酔っぱらった河童、外道井、 竹女、見返り地蔵) までの伝説です。

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弁天さまと大黒さま
諏訪神社から大手橋を渡らず西山の方へ登ると「旧長崎東高(西山校舎)」の上手 に、「弁天さまと大黒さま」がある。ここらは、昔、お寺や庵が点在し弁天さまの お使いの約3.8mの赤い大蛇がいて、それを見た人は病気に取りつかれ寝込んだという。 でも不思議なことに弁天を拝めば病気にならなかった。ある時人夫が大蛇の巣の上で 焚き火をし、焼き殺してしまったところ夢枕に大蛇がやってきて、7、8代祟るぞと 言ったので気味悪くなり供養したという。
松森神社
西山神社
西山町の狭いバス道路を登ると「松森神社」がある。さらにその奥の「西山神社」の お使いは白蛇で、今も時々姿を見かけるものがいるそうだ。この神殿の建築は日光の ように美麗で特に正殿瑞離の欄間の飾り彫刻物は「左甚五郎」の作だと伝えられている。 また菅原道真公直筆の露像も奉還されているという。「西山神社」の本殿の側の掘り 抜き井戸には赤い眼の白蛇が出没して宮司を驚かせる。5、60年前まで大きな松の 老木が茂り、その梢に真っ白い光が毎晩燐光を発した。これは星の神が白蛇を使わす からで、1月と5月の13日に星祭りをする。
水源地の神木たん
「西山」は長崎の東の山手であるが長崎小次郎の城の西にあたる森で「西山」と呼ばれた。 西山高部に「水源地の神木たん」がある。水源地を拓いていた人夫が樹を切り倒そうと、鋸 を当てると下腹が疼き、切り倒すことができない。他の2、3人が代わって鋸を引くと皆 体が痺れて倒れてしまった。これは水神様じゃないかということで松の木はそのまま水源地 に残されたそうである。
酔っぱらった河童
中島川の上流には河童の伝説が多い。河童は水神様の家来で、その数が増加し、人間に対する いたずらも増えた。たまりかねた水神様の神主が毎年6月15日の丑満刻(深夜2時)河童を みんな招いて御馳走しお酒をふるまってやると、その翌朝、「酔っぱらった河童」どもは真っ赤 な顔をして西山橋の下の石の上やあちこちに戯れ水音高く遊んでいたそうで、それからよく言う ことを聞くようになったという。
外道井(げどうい)
春徳寺は臨済宗五山派京都建仁寺の分派で、寛永7年(1630) に立山に小さな寺を創った。それをキリシタン寺のトードス・オス・ サントス(諸聖人教会)の跡に寛永20年(1643)、代官末次平蔵茂貞が徳川幕府の命 により移築した。境内には「外道(キリシタンの意)井」という南蛮人の掘った 井戸があり、「底が長崎港までの地下道」で、まさかの時の為に信徒が 備えたという伝説がある。戦時中に使用したという話もある。 外道井のちょうど下の方100メートルのところに水質豊かな井戸が ある。むかし、弘法大師が長崎を訪れて、そのあたりの人が 大変水に困っているのを哀れみ、手にしていた「独こ」で地面を叩くと 美しい清水が湧き出たという。ご存じ「トッポー水」です。 長崎三大美水の一つで、「おんな水」ともいい、お茶をたてる時に使用すると 大変美味しいそうだ。どんな干ばつでも水が切れることはない。ここの鉄翁和尚は 南書の大家でもあった。
竹女
むかし西山の乙名(役人)松見半太夫の娘、お竹は大変器量良しであった。ある時、 笛を吹きながら森を歩いていると、気品のある若者が現れ、お竹はこの若者を忘れ ることができなくなった。何度かこの森で逢い、恋仲になった。そのうちに若者は いっこうに姿を見せなくなった。しばらくしてお竹も行方不明。半太夫は気も狂わん ばかりに探したが見つからない。占師に占ってもらうと、頂上近くの竜頭岩の上で 若者とお竹が抱き合っていた。占師が数珠を押しもみ呪文を唱えると、若者は大蛇 と化し口から白煙を吐き森に消えた。お竹は気を失って倒れていた。それ以来、この 岩をたたくと「タンタン竹女」と鳴るという。
見返り地蔵
「見返り地蔵」は蛍茶屋から矢の平橋を渡り四つ角の小さな堂にある。長崎西国巡礼 第25番札所で、その中に首を左横に向けている90cmばかりの黄金色の地蔵さま が安置されている。むかし、一人の泥棒が浜町で一稼ぎして大風呂敷の盗品を背負って この前を通りかかった。「あいたしもうた。地蔵さまに見られたばい」と驚き「お地蔵 さま、どうかだあれにも言わんでおくれやな」と手を合わせて拝んだ。 地蔵さまは「よかよか、おれは見んふりするけんおまえも人にしゃべるなよ」と顔を横に 向けた。それからこの地蔵は左の方を向きぱなしでいた。5、6年後にまたやって来た 泥棒は感心して参拝人がいるのも忘れ「この地蔵さまは感心なお方だ。わたしがこの前に ・・・・」と独り言を言った。参拝人が「さてはあの晩うちに押し入ったのはおぬしだっ たんだなあ、さ、参れ!」と奉行所に突き出した。それから、物識りでお見通しのよいお 地蔵さまだとして信仰されている。

解説:
 乙名(おとな)
   地役人(警察権)。市民生活と最も深いつながりを持ち、重要な位置を占めていた。
   毎年正月4日〜8日に町内に住む地役人・地主・店借・町人から旅人まで一人残らず
   キリシタン取り締まりの為の踏み絵をした。

 長崎小次郎の城
   長崎氏・・・戦国大名有馬貴純の三男(康純)が長崎氏に入って後を継いだ。
         康純・・純方・・(甚左衛門)純景(すみかげ)
   城名・・・・鶴城(別名:櫻馬場城)(現:城の古跡)
         鳴滝町・片淵町・夫婦川町にまたがっている。


参考文献: 日本の伝説28「長崎の伝説」:福田 清人、深江 福吉著(角川書店)
            長崎新聞の切り抜き(20数年前、日付不明)
      NBC長崎放送での放送のメモ書き(10数年前、日付不明)


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