「長崎市内とその周辺の伝説(その1)」のページ

長崎駅前〜諏訪神社 (水神宮さま、西坂地蔵堂、南蛮幽霊井戸、福済寺、鉄心の大鐘、勝山、 サンタ・マリア教会、諏訪神社、おくんち、蛇踊り) までの伝説です。

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水神宮さま
6月1日に大黒町(長崎駅前)で、青旗や赤旗を立て、ドブロクを竹の筒に入れ、 蛇の目饅頭や桃饅頭を水神宮さまに供え、川祭りを行う習慣があった。 親族や知り合いにご馳走し、心を祓い清め、水難の加護を受ける。また、 ここのお守りを紙で巻いて竹皮で包み、肩から腕にかけると水難にあわないと 伝えられていた。ただし、水神宮は戦災で消失してしまった。
西坂地蔵堂
「西坂地蔵堂」は西坂公園の裏手にあり、昔、樺島町の人が大波止の海中に地蔵さんを 見つけて、「これはかたじけない」と思い拾い上げ、天王山聖徳寺に安置するように 決めた。そして、人夫を雇い大黒町から西坂を登り、御船蔵町を通り聖徳寺に運ぶ途中 、樹陰に一休みしたところ、それ以降皆がどんなに頑張っても、地蔵さんは根が深く 生えたみたいで動かせなくなった。そのまま、放置していたら、ある晩、枕にその 地蔵本尊が現れ、「西坂に安置せよ」との御告げがあったので、寛文8年(1668)の元日、 現在の地に安置し読経祈祷をして祭祀した。この地蔵尊の霊験は高く、寛政8年(1796) 4月には弘法大師とあわせ石窟を堀り祀られたが原爆で焼かれたままの石窟が一時期、 被災者の住まいになっていた。現在は町内で祀られている。
南蛮幽霊井戸
長崎駅前から歩いて5分程の本蓮寺に「南蛮幽霊井戸」がある。この寺は元和6年(1620) 日領上人により開基された。古井戸の側の部屋に寝ていると頭の位置が向き替えられ たり、真夜中に人々の嘆きや泣き声が聞こえる。その為に、その部屋は「寝返りの間」と 呼ばれた。この部屋の入口の杉戸の絵はキリシタン山田右衛門の老人絵で「南蛮杉戸」と呼 ばれ「油絵の祖」とされている。
  ある時、若い日親という僧侶がこの話を聞き、短刀を懐に忍ばせて寝ていると、夜半、 人の足音がするので、起き上がると、杉戸の絵の老人が抜け出して歩いてくる。目が異様に 光る。日親は間髪を入れず短刀でその目をくり抜くと、老人はピタリと止まり、日親は その場に倒れ何日かうなされた後に死んだ。その「南蛮杉戸」も原爆で焼けてしまったが、 「幽霊井戸」は庭に復元され、ふたの上に築山があり辺りに水を貯えている。
福済寺
天正15年(1587)から明治維新ごろまで大村藩の蔵屋敷が並んで、ひっそりしていたという 通りを右手に歩くと、寛永5年(1628)唐僧覚海が建立した「福済寺」に辿り着く。この寺は 唐三寺の一つで国宝だったが、原爆で惜しくも焼失した。この界隈に流行病が広まったり 長患いする病人が絶えなかった。ある時、町に住む富永という人の枕元に「私は浦上川に捨 てられている石地蔵でございます。お助けいただいてこの西中町に祀られるならば、町の流 行病を絶えさせるでしょう」という御告げがあったので、不思議に思い浦上川を調べてみると 石地蔵が捨ててあった。それを自宅でお祀りすると町の流行病も、長患いもなくなり、お祀り を怠ると病人が出るので、近くの「福済寺」に安置し、4月24日お祀りするようになった。
鉄心の大鐘
「鉄心の大鐘」のある万寿山聖福寺は延宝5年(1677)に鉄心が建立した唐寺の一つである。 寛文3年(1663)3月8日、発狂し隣人を殺し火を放って自殺した惣左門の火が大火を引き起 こした。奉行所をはじめ長崎の三分の一以上が類焼し、長崎に関する文献も多く失われた。 延宝6年(1678)鉄心和尚は智覚院を譲り受けてこの寺を開基し、かねがね貯えていた多くの 大判小判を鐘を鋳るのに用いた。釈尊が大獅子吠するように雄々しく陽気で、しかも諸行無常 の感を全身に震わせるこの鉄心の鐘が、火災等で響きわたると長崎っ子は深夜でも一斉に飛び 起きたという。夕暮れにこの鐘が鳴らないと一日が終わらない。今では平和の鐘として市民の 心の支えとなっている。なお、ここには「ジャガタラお春の碑」もある。
勝山
「勝山」は天正6、7年(1578,9)長崎所領をとろうと攻め込んだ深堀藩の将士を、当時の領主 長崎甚左衛門が迎え撃った戦勝の地と伝えられている。故に「勝山」と名乗り、諏訪の祭りに 繰り出す町内の傘鉾にも軍配や法螺貝陣太鼓を飾り、薩摩踊りで傘鉾を誇らしく舞っている。
サンタ・マリア教会
市役所近くから立山にかけて、慶長5年(1600)から12、3年の間に建てられたサン・ドミンゴ 教会、サン・フランシスコ教会、サンタ・マリア教会があった。丸屋(マリア)は貧乏な大工の 娘で大変利口な娘だが、自分は一生嫁に行くまいと誓いを立てていた。しかし、ある身分の高い 殿(王様)が美しい丸屋を嫁にと言いだした。そのとき丸屋が天に祈願すると、暑い6月という のに雪が降り、約1.5mも積もった。その時、天から花車が降りて来て丸屋は天に昇ってしま った。殿(王様)が心を奪われて茫然自失のまま時が過ぎ、死んでしまった後で、丸屋が「雪の 丸屋」となって地に降りて来た。その時、天の大帝王が蝶に変身し、丸屋の口に飛び込んでしま った。2月の中頃身籠もった為に、家を追い出されて遥か彷徨ったあげく、ベツレヘムの百姓の 牛小屋で赤ん坊を産み落とした。この子がキリストになり、キリストが大きくなるとマリアはパ ライソ(天国)へ昇ったという。
諏訪神社
「諏訪神社」は慶安元年(1648)の8月にキリシタン信徒によって安土桃山時代に壊されていた 諏訪大神、森崎大神、住吉大神の三御神体を鎮座し、 長崎の氏神となり、守護神、商売繁盛の神、縁結びの神を兼ね、現在は交通安全、進学の神様にも なっている。京の祇園、大阪の天満、長崎の諏訪の祭りを本当の日本三大祭りという。 この神社の秘伝の一つ恋の神を紹介する。第一の鳥居をくぐろうとする足元の参道に直径60センチ 程の円形の石がある。これは神が女性に捧げる陽神で女性がこの石を踏んで参詣をすると、きっと いい男性への運が授かる。この鳥居を少し登ると陰神もある。直径60センチばかりの6角形に 中央をくり抜いた怪しげな石が参道にある。お参りの時に男性がこの石を踏んでいくと女性運に 恵まれる。これは三韓征伐のおり、長崎港の神崎神社において「陰陽の気あらわれたり」とした ものである。白弧の稲荷はその帰陣の時、皇后を慕って来たと伝えられる。
おくんち
10月7、8、9日の3日間が「おくんち」で、商宮律笛(しゃぎり)、太鼓、チャルメラが賑や かに奏でられる。「秋深し長崎の町衣替え」、このお祭り騒ぎがないと「じげもん」は秋を越せない。 「おくんち」の始まりは寛永11年(1634)旧暦9月7日、9日に行われた。御九日、御供日、御宮日 と書き、9月9日の重陽の日を祝う儀式で、社殿の前で遊女の高尾と音羽という女が三韓征伐の舞を 奉納したのが踊りの起源だと伝えられている。 また、別の説では徳川三代将軍家光の時代にキリシタンに手を焼いていた長崎奉行が人々の気をキリシタン 布教からそらせる為に、幕府の手厚い保護、援助のもとに祭りを始めたとも伝えられている。 祭りは7日未明の神事に始まり、午前7時からは各町会の奉納舞踊、潮吹きの鯨台、オランダ漫才、唐人船 等の後に、蛇踊りへと続いていく。「蛇」の長さは約20m、10人の蛇使いによって棒で支えられ、唐楽 囃子にのった玉使いの動きに合わせて踊り回る。神事舞踊は諏訪神社を氏神とする77町が11町ずつ、7 年後とに輪番で奉納する。
蛇踊り
「蛇踊り」は中国から伝わったもので、元々は正月上元、15日の中国人の催しだった。 慶長5年(1600)頃から唐船が多く入港したが、寛永12年(1635)唐貿易の最盛期に、唐人は毎月2日 と16日に五路財神(ウールウツアイシン)を祭った。これは趙玄壇(チャウエンダン)を御本尊に、 招財、招宝、利市、納珍で銭と財を司る神として、唐寺の興福寺、福済寺、崇福寺でチャアパア( 宝を招く意味)と掛け声高く蛇踊りを行った。 それが元禄元年(1688)唐人屋敷に近い本籠町の者が伝習を乞い、唐人屋敷の塀の外で日本人が、内で 唐人が蛇踊りをして習った。もともと青蛇を使うが、明治19年(1886)に諏訪明神は白蛇の使わしめた ものという伝説にちなんで白蛇を蛇踊りに使ったところ、長崎にコレラが大流行し毎日おびただしい 死人で棺桶が不足し、四斗樽まで使う始末となった。それで白蛇の踊りは縁起が悪いと嫌われている。 長崎の蛇は竜に似て、角が二本で垂れ髪をし、鋭い四つの爪をもつ四つの脚、火焔を燃やした尻尾に 七本の鋭い剣がある。これは、日食のとき太陽と月をのむ怪獣で、雲と水とを司り、雲を生じ雨を降らして 農作物を発育させ衣食住の福をもたらす。前を行く球は竜が飲む日月を象徴し、また男女の暗示でもある。

解説:
 キリシタン
   長崎の領主大村純忠、及び現地の知行主長崎純景の両者が共にキリシタンであり、
   しかも開港前の永禄10年(1567)以来、日本布教長コスモ・デ・トルレスの命に
   よって修道士ルイス・デ・アルメイダ、その2年後からはガスパル・ビレラが駐
   在して布教活動を展開し、同年純景の城下町で1500人の教徒が生まれ、トー
   ドス・オス・サントス(諸聖人)教会が建立された。

 ジャガタラお春
   キリシタン禁令が拡大され、ポルトガル人とその妻子、養父母の海外追放に発展
   した。島原の乱後の寛永16年(1639)にオランダやイギリス系の混血児やその母
   30余名がジャガタラ(現ジャカルタ)に追放された。その中の一人、筑後町の「
   はる」(15才)が、ジャガタラお春、その人である。イギリス系混血児だったら
   しい。彼女は母や姉と共にバタビヤに送られたが、のちオランダ東インド会社の
   社員と幸福な結婚をして四男三女をもうけ、恵まれた生活の中で73歳で死亡した。


参考文献: 日本の伝説28「長崎の伝説」:福田 清人、深江 福吉著(角川書店)
      わが町の歴史・長崎 :外山 幹夫他著(文一総合出版)
            長崎新聞の切り抜き(20数年前、日付不明)
      NBC長崎放送での放送のメモ書き(10数年前、日付不明)


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