- 幅広いJRCの活動
- ※堀会長、登場
- 足立
- すごく仲良しのクラブだったけど、そう言えば同窓会はしないわね。
- 山口
- 東高のJRCの歴史は、どれくらいあるんですか?
- 吉田
- よく覚えてないけどねえ。でもなんとなく違和感なくクラブに入ったんだから、伝統はあったんだと思うけど。
- 足立
- OB会とかしなかったから。
- 野田
- 卒業して社会人とか大学生とかで長崎にいる人たちが。
- 山口
- 今でも東高にはJRCはあるんですか?
- 野田
- あるんでしょうねえ。(笑)
- 小野
- アルバムを見てたら、身分証明書みたいなものとバッジがあったわ。
- 野田
- そう、バッジを必ず校章と並べてつけてた。
- 吉田
- 基本的に学校色がないクラブなんですよ。団体じゃなくで、個人の集まりという感じ。
- 足立
- ほかのクラブと併用した人もいるんでしょ?
- 吉田
- 僕は新聞部だった。
- 野田
- 結構かけもちの人が多かったんじゃないかしら。
- 吉本
- 僕はバトミントン」。
- 吉田
- よその県のJRCのメンバーが来て、そこに渡すための長崎の特徴を出したアルバム作りをして、記念にあげたことを思い出したな。
- 足立
- よその学校との交流会ね。うちの学校はこういう活動をしていますって言い合うような会だったのかしらね。何をしに行ったかよくわからないけど(笑)。あ、その時も確かフォークダンスしたわ。
- 野田
- 何かって言うと、親善(笑)
- 足立
- だから明るい人が多かったと思う。
- 小野
- よくゲームもしてたわね。
- 吉本
- ハンカチ落としとか(笑)
- 山口
- 長崎県の組織として活動はなかったんですか?何かをやるとか、全国大会があるとか。
- 足立
- 交流会とか支部会とかで、リーダーの人は忙しかったみたいね。
- 堀
- 大元の組織は何だったんですか?
- 吉田
- 日本赤十字。その下に青年部があって、それから青少年部があるという組織です。
- 足立
- 伊藤一兆さんは、いつも日赤の事務所にいたという感じよね。
- 吉田
- 彼は熱心だったから。
- 堀
- 伊藤一兆さんは、クラブの会報でインタビューしたことがあるんですよ。結構フランクにいろいろしゃべってくれました。彼は当時から政治家を目指してたそうです。だからそういう草の根運動みたいなことは政治に結びつくと思ってやったのかもしれませんね。だから生徒会活動も熱心にやった人なんですよ。西高の生徒会長を2期やったと。うちの女房がその頃西高にいたハズなんですけど、全然記憶にないって。
- 一同爆笑
- 吉本
- 僕は大学に入ってからJRCみたいなワークキャンプという組織に入ったんですよ。で、何をやったかというと、孤児院や病院の道をつくったり、要するに土方仕事ですよ。4年間に結構よくやりました。高校時代にJRCをやって、何かないかなと探したら、似たようなのがあったから結果的に入ったという感じです。
- 吉田
- まさに、引きずったワケだ。
- 吉本
- うん、引きずったよ。
- 吉本
- 足立さんが言われた偽善に関して言うとね、ワークキャプの場合は自分たちで汗を流してそれを楽しんでるわけです。掃き掃除とかしなくて、ホントの土方だけなんです。だから精神的にはずいぶん楽だった。
- 足立
- 楽ですよね。
- 吉本
- 奉仕だとか、尽くすだとか、そういう堅いことは考えなくていいわけ。結果的に世の中の役に立ったというだけだから、結構楽しかったよ。
- 堀
- 阪神大震災の後に、ボランティアという言葉が定着しましたけど、JRCの活動みたいなのが、その原点ですよね。
- 足立
- 私もそう思う。マスコミで取り上げられるたびに、私たちははしりだったから、あの頃はいろいろと非難もあって、自分自身も悩んだ青春だったって、いつも思い出します。
- 吉本
- あれは、まさにボランティアだもんね。
- 堀
- 悩みとは、具体的にどういう。
- 足立
- ボランティアという言葉が定着してなくて、偽善家ととらえられる世の中だったから、何をやってても、これは偽善なのかなと思いながら、活動にのめり込めなくて、スッキリしないまま悩みながら活動してましたよね。
- 吉本
- そうだったよね。
- 堀
- 当時ボランティアという言葉はありました?
- 野田
- ありましたけど、私たちもJRCに入って、ボランティアという言葉を知ったのよね。
- 一同 「そうそう」
- 足立
- でも孤児院なんかに行くと、みんなが喜んでくれるから、こちらが楽しくなってねえ。だから悩んだり楽しんだり、その繰り返し。
- 堀
- 一種、哲学というか思想というか、それがキチンとしてないと、そういう行動に走れないわけですからねえ。ひとつには宗教的なバックボーンがあると、人が何と言ってもいいんだという信念ができると思うんですけど、そういう点で当時みなさんで議論されたことはなかったですか?
- 足立
- それ、やってたような気がする。偽善と奉仕の精神の違いは?ってね。それを悩んでやめていく団員も多かったんで。
- 吉本
- 結構、その理由はあったもんねえ。
- 野田
- 私はあんまり悩まなかった。それよりも自分が楽しかったから、結構のめり込んだ方だったもんで。
- 堀
- ご家庭が純粋なクリスチャンで、そういう考え方に基づいて入ったという方は、いらっしゃらなかったですか?
- 吉田
- どうなんだろう。そういう話はあんまり聞いたことないな。僕の場合は、ばあさんとかおやじの兄弟とか身内に原爆でやられたのが結構いたから、戦争って何だろう、原爆はなんで落としたんだろうとかを中学の頃から考えてたから、何かひとつ行動に移さなきゃいけんだろうという気持ちはあった。それがいい具合に受け皿があったという感じかな。小中学校時代に本を読むのが好きで、いろんなものを読んでたんだけど、うちは貧乏だけどいい家庭だったから、変なチャチャが入らず、まっすぐにそういう考えができて、高校まで行ったんだと思うね。
今でこそいろんな人がボランティアに目覚めて、こういうことは世界的に必要だし、人間の生きざまの中でもボランティア精神は必要という考え方をする人も増えてますけどね。当時、我々が小中高校くらいまでは、まだまだ日本自体の経済や生活レベルがそこまでいってなくて、どうやって食っていくんだというところが重要な時代だから、そういう面は結構白い目で見られるところがあったよね。人に奉仕する前に、まず自分が食うことを考えなきゃ。
- 堀
- そういう活動をしている人間は、逆に言うと、いじめられやすいと思うんですが、最近でも目に見えないところで良いことをしようとしてる人間がいじめの対象になっているらしいです。心やさしい人間がいじめの対象になってるということが、社会問題になってるわけですが、当時はそういうことはなかったですか?
- 吉本
- 高校時代はほとんどそういうのは感じなくて、時々ポロッポロッと冗談めかしに言われるんだけど、それでおしまい。そこはやっぱり、あの当時の東高のレベルなんでしょうね。やっぱりあおの頃の東高は良いメンバーが揃ってましたでしょ?
- 足立
- 高校生時代は、青春っていうことで考えると、自分自身も人のためとか世界のために役に立つことがあるかなあと思い悩む時期でもあるんじゃないでしょうか、誰でも。だから、いじめに合わなかったんじゃないかしら。
- 小野
- 私は、小学校の時にかわいがってくださった先生から紹介されたんです。JRCというのがあって、つくりたいんだけど、ここの学校じゃつくれないって。それで、ああ、そんな団体があるのかあという感じで、中学校・高校って来たんですよ。だからすんなりと入れましたね。たまた小学校の先生がそういう人で。その時、ボランティアという言葉も聞いてね。
- 西口
- 卒業して1回、雲仙に行ったことがあるんですよ、国民宿舎に。卒業した年ですよ。その時は高校生だけじゃなくて小学校か中学校の小さい子もいて、今で言うウォークラリーでしょうか。途中で問題を出す役をやってたんですよ。
- 堀
- オリエンテーリングかな。
- 西口
- あ、オリエンテーリングかな。途中で質問というか…
- 足立
- 赤十字の知識を確かめる?
- 西口
- そう。あの時は相棒が一人、そのへんで倒れて寝てるんですよ、腹がいたい風にして。そこでどう対処するかを訓練するんですよ。
- 足立
- 人工呼吸のしかたとか、私たちも訓練しましたよね。
- 野田
- そういうのはまた別に救急法とか言ってね。
- 足立
- 三角巾の使い方とか、知識としてはそういうのを持ってないといけないって、勉強してたわね。だからJRCの活動と言ったら、すごく幅が広いのよね。
- 野田
- だから、学校単位で学校の中でやることと外での活動があるのよね。
- 山口
- その活動の幅の広さについて、どなたか整理して説明していただけませんか?
- 野田
- 赤十字の県の支部からさせられる仕事というか、それに自分たちで相談して始めることと…。
- 足立
- 例えば、長崎東高なら地理的に原爆病院が近いから、そこで奉仕をしようじゃないかって、自分たちで考えるわけです。奉仕をしようって言ったら、孤児院とか養老院とか盲唖学校とか幅広くあるわけでしょ。でも全部は時間的にできないから、じゃあ自分たちの活動としてはこうしようと目標を立てなきゃいけないほど、活動は広がるっていう感じだった。あまりにも漠然としたような感じも…。
- 野田
- う〜ん、そう。
- 吉田
- 有り難かったのは、下に運転手のお兄さんがいたじゃない、その人が気さくな人でさ、すぐに赤十字社のバスみたいなのを出してくれてね。
- 一同 「そう、そう」
- 野田
- マイクロバスとか救急車とかをね。
- 吉田
- いざとなったら、赤いランプとサイレンつけて走れる。(笑)
- 足立
- 救急車に乗せてもらったわねえ。
- 吉田
- あれをねえ、結構気楽に出してくれてね。どこ行くにもそれで。
- 西口
- 毛布をですね、なんかやったような気がするんですけど。
- 足立
- ああ毛布ねえ。集めた?
- 西口
- いや、集めたんじゃなくて、整理しただけですかねえ。
- 野田
- うん、そうでしょ。毛布はたくさんあったから。
- 足立
- 救急用の毛布がね。
- 野田
- 担架をつくる訓練とか、畳み方とか。
- 吉田
- そういえば、やったねえ。
- 足立
- だから、赤十字の事務所の手伝いみたいなことをやってたんでしょ。
- 吉本
- それ記憶あるなあ、確かに。
- 野田
- 炊き出しの訓練もやった。お米とね、鳥肉とかいろんなものをポリ袋に入れて、大きなお鍋で煮るの。そしたら、炊き込みごはんが1パックずつ出来るのよ。
- 吉田
- ほう。
- 足立
- だから、あのころ阪神大震災みたいなのが長崎にあったら、私たちは活躍してたんじゃ」ない?赤十字社から、あなたたちも手伝ってくれとか言われて。 一同(笑)
- 野田
- 稲佐山に行ったりしてね。
- 足立
- そんな技術はもってたわけだから。
- 山口
- そういう意味では、活動の幅の広さというのは、奉仕活動と同時に、いざという時に役に立つ知識や技術を見につけるということだったわけですね。
- 野田
- それはやっぱり赤十字の一員ですよね。学校のクラブじゃなくてね。
- 吉本
- ああそうだよね。そういう訓練も受けてたんだよね、教育もね、思い出してきたなあ。
- 吉田
- うん、そうだ、結構忙しかったもんなあ。(笑)
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