拝啓 「暖冬」という予報が恨めしいような日が続きます。
先生にはご清適のこととお慶び申し上げます。
過日いただきました賀状によりますと、本年3月ご退官のよし、ご激務を思いますとほっとし、教育現場に立つ者への直接のご指導がなくなることを思いますと残念な思いが湧いて参ります。
どうぞお健やかにお過ごしのほど念じあげます。
さて、今日は先生にお礼を申し上げたくてペンを執っております。
昨年の暮れに一本の電話がありました。
「私は長崎東高17回生のoと申します。目立たない生徒でしたからお忘れになっていると思いますが、私は先生のご指導にいつも感謝しておりました。いつかお礼をしたいと思いながら果たせずに参りましたが、ようやく何とかお礼が出来るようになりましたので気持ちだけの品送らせていただきます。」
そう言って、「実は10年ほど前の名簿でお電話さしあげましたので」と、私の住所を確認しました。
「あなたのおことばだけで、ありがたいと思います。お心遣いはなさらないように。」
と、私は伝えました。
しかし、私の酒好きを知ってのことでしょうか、肴の逸品が届きました。
はずかしいことに、私にはo君の記憶も定かではありませんでした。さっそくアルバムで確認しましたけれど、o君に対してこれといって「お礼」をされるようなことをした覚えはありません。私は頂いていいものかと迷いました。しかし、o君の厚意を素直に受けることにし、還暦を迎えた記念に編んだ拙著『花は野の花』を返礼に送ったのでした。
去る16日、o君からの便りがありました。長くなりますが、全文そのままを写してみます。
そして、「かながわ・ゆめ国体」のテレフォンカード3枚と、司馬遼太郎賞を受賞した立花隆氏の新聞記事がコピーして入れてありました。その一つの記者会見を報じた見出しに「仰ぎ見ていた人/本当にありがたい」(10・1・14・産)とありましたので、おそらく立花氏と同じ心境だという思いを伝えたかったのであろうと推察しました。
私はしばらく茫然としていました。気付くと涙を流していました。
長崎東高校は、先生にも何度か講演をお願いしましたのでご承知のように進学校です。ことに男子は100%近くが大学進学を志していました。o君も進学を志していたに違いありません。私はo君の担任でもありませんでしたから、卒業後すぐに就職していたことも知りませんでした。
o君の手紙は私にiさんを想起させました。彼女は私の担任した生徒のなかで最初に就職した生徒でした。彼女は「短大にゆきたかったのに……」と涙声でつぶやきました。
「家庭の事情が許さないのなら、しかたがない、他の人より一足早く実社会に出ることに誇りを持ちなさい。もし、君が勉強を続けたいのなら、君の給料から毎月、岩波新書か中公新書から、君の読みたい1冊を買いなさい。君ならたぶん2日もあれば読み上げるだろうけれど、次の給料日までその1冊を繰り返し読んでごらん。著者が懸命に書いた本なのだ。1冊で大学の1単位分は充分にあるよ。1年で12単位、2年で24単位……。続けてごらんよ。大学にゆかなくても、それ以上の教養を君は身につけられる。涙を拭いて、胸を張るんだ。」
私は懸命に話して送り出したのでした。その後彼女から達筆の賀状が毎年届きます。途中で姓もかわったので幸福な結婚をしているものと思っております。
o君もパン工場を振出に懸命に生きて来たのだと思います。その辛苦の30数年を支えていたのが、先生から頂いた二行のおことばでした。
先生のおはがきの二行のおことばに、私も支えられて参りました。
「ことばの持つ重み」にいまさらのように心うたれております。
同時に、40年の教師生活で、私は、無意識であったにせよ、心ないことばで多くの人の心を傷つけてきたのではないか、とも思いました。
o君の手紙は教師冥利に尽きるありがたい手紙でした。お礼を言わなければならないのは私の方です。そして一方、o君の手紙は教師としてけっして立派ではなかった私自身を思い返させました。もし私の心ないことばがトゲになって除れないでいる人がいたら……と思うと、居ても立ってもおれない気持ちになるのでした。
教師とはむずかしい職業であったのだと改めて思わずにはおれません。
退職の挨拶で「大過なく」ということばを使っていました。その夜の歓送迎会で、私と東高で一緒に仕事をした安本君(生物の先生です)が来ました。
「先生に『大過なく』なんて言ってほしくなかった。大過あるからこその豊永さんじゃないですか。だからほんとに怖かったんです。あーあ、ぼくのいちばん怖い人が明日からもういなくなる。」
と、彼は寂しそうに盃に酒を注ぎました。
「そうだよね。考えてみればぼくの40年は『大過』の積み重ねだった。そうか、『大過の切上げ時を迎えました』と言うべきだったんだ。」
安本君はうんうんとうなずきました。彼は、「私立には私立でなければできないことがあるはずだ。それを探そう。大過なくでは一歩も前に進めない」と言っていた私の理解者であり、同志であり、彼自身揺るぎない信念の持ち主でもありました。
「大過の挙句」は不首尾でしたが、授業の一時間一時間を一期一会と覚悟した重い時間から解放されて、気儘に読んだり書いたりしていた私に、o君の手紙はいろいろな思いを与えたのでした。
そして、何よりもまず、先生にお礼のお便りをさしあげねばと思ったのでした。
心からお礼を申し上げますとともに、今後ともよろしくお導きくださいますようお願い申し上げます。
追伸─長崎東高校在京同窓会のインターネット・ホームページにエッセイを頼まれ、2ケ月に一篇の駄文を寄せております。今回は先生へのお便りをそのまま送ってみたいと思います。そのため、ワープロでのお便りになりましたこと、お許しください。
不思議なことに、このホームページに私をことば巧みに誘い込んだ男も17回生、挿絵(文章よりも数段すばらしい)を担当している主婦もまた17回生です。彼等の卒業しました昭和40年の前後数年間が、私の最も充実していた時であったのかも知れません。
ただ狂へ
狂へば命が見えてくる
誰のことばでしたか、たしかこんなことばだったと思いますが、毎日心の内でつぶやき
ながら、夢中で過ごしていました。
<注>野地潤家先生──広島大学教育学部教授・学部長。現在鳴門教育大学長。国語教育学の権威で、教育学博士。著書多数。
東高に講演をお願いしたときのことである。恒例の講師を囲んでの一席を、「時間がもったいない。できたらシングルのホテルを、そして一切かまわないでほしい。定められた時間にはゆくから」とお断りになった。
「実は、以前は年間1000枚をノルマにしていたんだが、最近仕事が増えて700枚に滅らしている。講演を引き受けたときは、まとまった自分だけの時間が取れるのがありがたいんだよ。」
という理由であった。それを聞いて、電車からお下りになったときの鞄の重さが分かった。大きな鞄には論文の資料と講演の資料が詰まっていたのである。
それでも私は2時間だけとご無理をお願いして、食事後、稲佐山にご案内した。
「噂には聞いていたけれど、きれいですね。」
長崎の夜景をしばらくじっと眺め、「ありがとう」と仰ったのが嬉しかった。
翌朝、学校にお迎えすると、
「校長先生にご挨拶する前に、豊永君、広辞苑を……。」
と、仰る。「えっ」と言う私を見て、
「確かめておきたいことがあってね。」
と、続けられた。話しことばは、口から出るとすぐに消えてゆく。そんな自分の話しことばをも確かめるべきは確かめて壇上にお立ちになるのだと知って、私は襟を正した。
お話をうかがった後、私もせめて1年に300枚ぐらいなら書けないものかと、さっそく原稿用紙1000枚を注文し、その約三分の一を机上に置いた。論文は書けるはずもないから、授業記録や教材研究、それも無理なら随筆をと始めてはみたものの、毎年机の上の原稿用紙は半分にもならなかった。
o君の支えになったという、
しっかり。
君の声がきこえてくる。
ということばは、大学卒業後の新任教員の悩みを先生に訴えた私へのご返事。はがきの中央に書かれていた。その後「このことばを私に下さい」とお願いし、お許しを得てから「私のことば」として使っていたのである。
今もそのおはがきは書斎の中央にあって、私を支えつづけている。