「一枚のはがき」は、豊永先生の恩師、野地潤家先生の退官記念事業として編まれた『野地先生に学びて』(224名のエッセイ集)の中の一編で、 豊永先生の還暦を記念して出版された、『花は野の花』にも収録されている作品です。
一枚のはがきがある。
ヨコ九センチ、タテ一四センチ。楕円形の中の国会議事堂の下に、5.00。中央の枠内に「往信」。消印が29とかすかに読める。差出日は、消印の下に、五月一六とあってその六を五重丸で消してあり、その下に七日とある。日付に並んで、これはかっちりした楷書
のゴム印で、「広島市基町北区五五〇、野地潤家」と二行、青インクが走っている。
この住所を目にすると、いつも鮮烈によみがえる想い出がある。
「さあ、ゆっくりしたまえ。」
とすすめられて、しばらくとまどう。
天井まで積み上げられた本。カード類のぎっしりつまった箱。部屋の隅、本の谷間に小さな机が一つ。その机の向う側に、広いおでこの下の、あのやさしい目がほほえみかけている。おそるおそる、その机の下に膝をさしこむと、野地先生のお顔は、すぐ目の前。
教育実習の教材研究にゆきづまって、お宅におうかがいした時のことである。西瓜をご馳走になり、ご本を二冊お借りして、帰るときには、もう今度の授業は大丈夫だ、と思い込んでいた。
その時お借りしたご本から、私は読書のしかたを教わった。二冊とも、さまざまな符号が記してあった。ふと、この、符号は、何らかの意味を含んでいるはずだ、と気づいた。二冊の符号を読みくらべて、私は野地先生の読書術を盗んだ。さっそく、教育実習の教材にその術を用いて、大いに得意であった。とはいえ、翌日の授業の反省会では、完膚なきまでやっつけられたのだが、しかし、今もってその読書術は、私の中に生きている。
はがきに、もどろう。
裏は、表よりもはるかに日焼けしている。
中央に、大きく、
「しっかり。」
その左横に一行、
「──君の声がきこえてくる。」
と、独特の書体で書かれている。
中央上部に、画鋲のあとが、わずかに白い。
昭和二八年、私は長崎県立平戸高等学校(現猶興館高校)に、新任教員の一人として赴任した。
新米教員の気負いや自負も、やがて、不安の裏がえし、すべては空転していることに気づかされる。
自己嫌悪が洒を覚えさせ、酒でごまかしている自分が許せなくなり……といった悪循環の日が続く。自分は教師としては不適格者だと思ったり、大学院でもう一度勉強し直そうかと思ったり、そんな精神的に不安定な状態のまま、それを、すっかり、野地先生へ、便箋五、六枚に書いた。そのくせ、お手紙をさしあげるとすぐ、あんなことを書かねばよかったと後悔するのだった。
先生からは、何も言って来なかった。
──全く何とも言いようのない手紙だったのだ。それは、お前自身の解決すべき問題なのだ。
そうわかっていて、だから、つらかった。
そのころ、私は先生の 「教育話法の研究」をくりかえし読んでいた。そして、少しずつ何かをつかみかけている自分を識っていた。
そんなとき、このおはがきが届いた。
私は画鋲で本立にこのおはがきをとめた。毎日、いやでもこの文字が目に入るようにした。
数年後、ある研究会で先生にお会いした。
「あのはがきのことばを私に下さい。」
とお願いして、お許しをいただいた。
それから、私はときどき、このことばを使った。そして、それを忘れたころ、
「先生のはがきで、救われました。」
などと、教え子から礼を言われる。まともに言われると、「しっかり」していない自分が、はずかしい。
「いや、あれは、ぼくがしっかりしていないもんだから、だから、自分に言っていることばなんで……。」
と、へどもど言いながら、ことばの持つ「重み」をあらためて握り直したりもした。
今、このはがきは、書斎中央の本棚にある。三十年間の苦悩を吸い込んで、しかもまだきっぱりと告げている。
しっかり。
──君の声がきこえてくる。