ゆり


    でんでん虫々
    かたつむり
    お前のあたまは
    どこにある
 手拍子の合唱が起こる。舞台に、日本舞踊に使う派手な色の傘が、そろりそろりと転がってゆく。
    角だせ
 傘から右拳がひょいと出る。
    槍だせ
 今度は左拳が突き出される。肘まで出ている。
    あたまだせ
 まじめな顔が傘の上から出てすぐにひっこむ。
 合唱は続く。
    でんでん虫々 かたつむり
    お前のめだまは どこにある
    角だせ
 右拳がひっこむ。
    槍だせ
 左拳がやっぱり肘まで出て、あわててひっこむ。
    めだま出せ
 傘から広いおでこの下の優しい目がのぞいて消える。
 傘がたたまれて正座の前に置かれる。両手をついて一礼。
 どっと拍手と笑いが湧く。なかに「モッテコーイ」とわめく声もまじる。
 やがて設けの席に戻ると、再び盛んな拍手。
 右掌が額にぽんぽんとゆき、左の肩が心持ち下がる。恥ずかしそうな笑顔。「オッホッホ」という声が聞こえてきそうな気配。

 斎藤進校長の余興である。お酒もあまり召し上がらないし、無理強いする人もいなかったから、めったにお出しにならなかった。私は二度見ている。
 見ていると、何と言ったらいいのだろう、心の底から和らいだ思いが噴き出るとでも言えば、当たらずとも遠からじということになろうか。
 先生ご自身は、最初から最後まで、遊びもごまかしもなく、ひたすら[かたつむり」を演じていらっしゃる。だからこそ、そこに出る「おかしみ」は、味があり品があって、その場を陶然と包んだのだと思う。

 昭和32年4月、東高に転任した私が最も驚いたのは、斎藤校長の日本語であった。
 (こんな美しい日本語を話せる人が長崎にいた)
 私は緊張し、襟を正して、先生の日本語を聞いた。
 全校生徒を対象に話される内容は、時に硬質で、生徒の理解の限度を越えていることもあった。(これはh・rで解説しなければ)と思い、下書きをしながら、ついに私はそれをしなかった。下手な解説はあの美しい日本語を汚すことに気付いたからである。
 先生のお話のなかで、卒業生諸氏よりも、むしろ今、東高に学ぶ生徒諸君にぜひ聞かせたい話がある。それは、大要次のようなものである。

 東高の校歌は各節すべて「東、東、光あり。」で終わる。これはたいへん大事なことである。「光あれ」の方が元気があっていい、という人もいる。しかし、「あれ」とは、光が「ない」から、「あれ」と自らに命じ自らを鼓舞し希求する意味になる。
 東には「光」が厳然として「ある」のである。
 「東の光」とは何か。それは、諸君ひとりひとりが発している「光」であり、そしてまた、その集合された輝きである。ひとりひとりが光源であり、全体を輝かせながら、全体の輝きは、また、ひとりひとりの光源により強い力を与えている。
 「光あり」とは、そういう意味である。
 私はそういう「光」のなかで諸君とともに在ることを、このうえなく幸福に思う。

 ある年の卒業式の訓示は、次のようなことばで始まった。
 「卒業生諸君には折にふれて話をしてきましたから、いまさらここで何も申すことはありません。今日はご父兄の皆さまに、卒業生がどのようにこの3年間を過ごしてきたかをご報告しましょう。」
 先生のお話は、h・r日誌の引用を主とし、若干のコメントを添えたものであった。
 高校1年から順を追って、生徒の涙と笑い、挫折と苦闘、思索や模索の歴史が語られてゆく。卒業生はうなずきながら高校生活を自分なりに総括し、次第に自信に満ちた表情を見せていた。父兄は、時にうなずき、時に目を潤ませ、時に微笑をもらし、わが子の成長を確認しているように見えた。
 私は感動した。そして、「何たる自信か」と思った。確固とした自信なくしてこんな訓示はできはしない。先生はおそらく33冊のh・r日誌に丹念に目を通して「東の教育」に自信をお持ちになったのであろうか。
 私は、何時の日か、このような訓示をしたいと思った。しかし、果たせなかった。

 生徒は「お嬢さま」と呼んでいた。しかし、なみの「お嬢さま」ではなかった。いったん「ノウ」と仰ると梃でも動かしようがなかったという。校長会長もなさっていて、県庁には度々お出かけになったが、いつも県営バスの回数券を自身お求めになり、事務室でタクシーの利用をお勧めしてもがんとしてお聞きにならなかったと聞く。管理職手当なるものが支給されてしばらく経ったころ、先生の管理職手当はすべて「東交会(職員の親睦会)」に寄付なさっていたことを知った。「すべては先生方のおかげだから」と、これも誰も止めることはできなかった。

 一枚の写真がある。新郎新婦を中心にして、両家の親族が並んでいる。どの顔もなぜかそれぞれの最も美しい笑顔である。写真屋の撮ったのでは皆すましていたのに、弟の撮ったこれは珍しい写真になっている。媒酌の労をとっていただいた斎藤先生ご夫妻も、きれいな笑顔を残していらっしゃる。
 妻の父は、酔うといつも言うのだった。
 「小説ば書く者にろくな者はおらんて聞いとったばってん、あの先生に、とにかく一度は日本一になった男ですからて言われたら、何も言えんごとなって……。」

 ブドウの実るころであった。私は家族を連れて先生のお宅に伺った。
 開け放たれた部屋の奧の間に机に向かっていらっしゃる先生のお姿が見えた。
 「やっと自分の時間が持てるようになってね。」
 すべての公職を退かれたのである。
 ナイフでブドウの皮をむいては子供に渡しながら、牧師の資格を取りたいと勉強を始めたと嬉しそうにお話しになった。たしか、12科目かの試験があって、あと2科目というところまでこぎつけたとかで、
 「いま、ラテン語の勉強。年をとると、ここがね。」
 と、薄くなったおつむをたたいてお笑いになる。私は自分の不勉強を指摘されたようで恥ずかしいこと限りない思いをした。

 「おお、おお、大きくなって。お父さんそっくりだね。」
 大学病院にお見舞いに伺ったとき、先生は、娘にとっての禁句を、やさしい眼でおっしゃった。
 「医師も看護婦も、みんな心うたれる方と言っています。」
 帰途、たまたま出会った関根君(14回生)が言った。
 先生のお言葉を聞いたのはこの時が最後になった。

 先生の訃報に驚いてご自宅に伺った。
 いつもの静かなやさしいお顔であった。
 東高に赴任して後、ひそかに目標にしてきた方を失ってしまった。
 「あんな顔で死ねたら、いつ死んでもいい。」
 と言うと、妻は言った。
 「そうですね。でも、まだあなたには無理。」
 「うん。」
 と答えて、腹の底でつぶやいた。
 (いつまで経っても、ぼくには無理だろうな。)
 つぶやきながら、悲しみが全身の細胞を満たしてゆくのを覚えて、私は立ちすくんでいた。

ーー了ーー
鉢

注・斎藤先生の東高での業績は、『ひがし40年』(41頁以下)に見事にまとめられている。
拙文は「管見 斎藤進先生」と題した方が良かったかもしれない。

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