『ひがし40年』より
「東高・・・
我々はこの名に誇りを感じ、その故にこそ、この名を限りなく愛惜している。創立以来の先輩がこれを築きあげてきたのである。我々はこれを受け、更に、新たにしていきたい。この伝統の継承と創造は、我々の生活にかかっているのである。
ここに学ぶ1300の生徒諸君は、皆理想をもっている。その理想を現実化するには様々の問題が生まれる。そういう問題と取組む生活を互いに理解し合ったら、我々は、どんなに力強いものになるであろう。生徒会はここに感ずるところがあって生活記録を集めたのである。
原稿は字句の訂正が多少施されただけで、掲載された。一つの傾向で統一されてはいない。『この部こそ私の最も欲している心の要求を満たしてくれる』という発見のよろこびや、生徒会の中心にあって、各部の動きの間にはさまれで悩み、或は人生にきびしさを求めて『つきあたり、転びさまよった』誠実さや、文学への目覚めと共に『一日48時間あって欲しい』という歓喜や、自分の成績の実態にしのびよるニヒリズムの顔さえ、うかがえるのである。これら多彩な高校生活への理解が東高の成長の基となるであろう。
もとより、これは第一号であるから不充分な点が多い。取上げねばならぬ面もあろう。要は文章のあやではなく、生きた問題との真摯な取組みなのである。東高は、よきにつけ、悪しきにつけ我々の生活によって変わってゆくのだから。」
その後、『ひがし』にはその年の生徒の生活記録が残された。東高の"自由な校風"がここに築かれていったように思う。即ち、生徒が屈辱を味わって落ち込んでいったり、文学に目覚めたり、部活動にのめりこむ自分の姿を反省したり、生徒活動の悩みを描いたり、安保闘争前夜の東高の一部生徒のまぼろしの決起を、また、東の伝統とは何かを問いかけるなど、さまざまな問題と生活が描かれている。齋藤校長は、この中から自分を育てる糧を得て欲しいと願っておられた。『ひがし』の内容があまり変わらなくマンネリに陥っているのではないかとの反省にも、
「変わらないのは、変わらぬものがあるからだ。高校生が通らねばならない道で、遭遇する諸問題に取り組むのに、いつも東高生らしさが現れるということではあるまいか。…いずれにせよ、真理の彼方に向かって、つつましく歩むことは、わかっていても迷路に踏み込むことも多かろう。母校の『ひがしの光』は、学生としての生活の誠実さから現れてくる日々の点火によるのである。自分を甘やかさぬ、きびしい学生生活によって、不変のこの東高らしさを守り育てたい」と言われた。
齋藤校長は、旧制水戸高等学校時代にキリスト教の洗礼を受けられ、以後、一代のキリスト者としての道を歩まれた。水戸高校時代に日本アルプスの槍ケ岳に登山され、岩場から転落し、尾てい骨を強くうち何日間も意識不明の日が続いて、麓の医師の看病でようやく一命をとりとめられた時、生命の尊さと科学の進歩に感動されたと言う。その時の医師が東京帝大出身であったため、東京帝大を志望されたと開いている。また、この転落事故からの生還がキリスト教への道を歩まれ始めた原因だったと、奥様が語っておられた。
物静かで、いつもおだやかな微笑、深い学識と相まって、先生方の尊敬はもちろん生徒からも信頼と畏敬の念をもってむかえられていた。職員会議等でも自由に発言を求められ、自分の結論はなかなかおっしゃらず、時間をかけ研究すべきことは研究させながら方向を示されていたという。
趣味は読書であった。西山校舎の緑が丘に図書館が建設され『図書館報』も刊行された。上京されるたびに、神田の洋書専門の店に寄られ原書を求められている。キリスト教関係の神学書が多かったようで、退職される頃になってその店で永年探しておられた書物を求められ、これでキリスト者としての道を歩むことを決意されたという。
この時代、大学の入試突破に対して学習時間を確保するため無駄な時間を出来るだけはぶき、学習量を多くする努力がなされた。学校行事であるクラスマッチ・文化祭・マラソン大会等も時期が検討され、体育祭の仮装行列も準備の時間がかかりすぎるため縮小する方何で考えられた。
進学部長であった金子清栄先生も新聞部のインタビューに、合格型のポイントとして6つをあげておられる。
〔1〕クラブ活動をしても時間を有効に使用できる者
〔2〕課外科目等適当に取捨し、自分の時間をつくり活用した者
〔3〕素直に教師及び教科書について勉強し、何が大切かをつかもうと努力した者
〔4〕他の学友のペースにまきこまれない者
〔5〕蛍光灯的愚を守って、歩みはおそくとも、正攻法的勉学に精進した者
〔6〕浪人するなら予備校をよく利用し、天下の大勢と自己の力の限界を知り、自重自愛、ややもすると荒れていく心をおさえて、生活をみだすことなく敢闘した者
このように、細かく指示されている。現在と比較して如何であろうか。金子先生は最後に「『百年兵を養うは一日戦わんがため』ということもある。まして我々の今日の努力は人生のコース決定の最大要因である。『治にいて乱を忘れず、勝って兜の緒を締めよ』」と檄を飛ばされている。最初の大学受験狂奔時代であった。
一方、昭和35年は日米安全保障条約の改定年であった。いわゆる60年安保反対闘争に血を沸かす生徒がおり、全国高校長協会が自粛を求めるほどであった。東高生の中にも密かに学習を行っていたグループがあった。『ひがし20周年記念誌』に投稿されたf君もその一人であった。彼は終局において行動をしなかったので、安保当時のことを語る資格はないと言いながらも、当時の騒然たる社会情勢に対し高校生ながらも漠然とではあるが危機感を抱いていた。そして、新聞部、生徒会有志によって社会科学研究会をつくり連日政治情勢について意見の交換、討論がなされた。「如何なる深遠な思想も行動が伴わなければ、結局何の意味をも持たない。我々も高校生としてよりは、一己の市民として行動する義務がある」として密かに準備をすすめ、無届けデモ参加まで決意したものの、学校側の知るところとなり、ねばり強く説得され遂に断念してしまった。
また、この頃、中央公論社社長夫人が刺されるという嶋中事件がおきたが、犯人の小森が元東高生であったということからその反響は大きなものがあった。
このように、昭和30年代は激動の時代ではあったが、齋藤校長の指導のもと全体として充実した東高であり、内面的成長をみせたと言っても良い。しかし、この後、生徒会活動は人を得ず不活発となり、次第に衰退していった。高等学校生徒会活動は曲がり角に来たのである。
図書館が発行している『書棚』の巻頭言に読書のよろこび、読書の仕方を書いておられる。その一つに、若い時に古本屋で発見されたp=t=フオーサイの『積極的説教と現代精神』を購入されたいきさつが述べられている。手持ちの金がなく古本屋のおやじさんに50銭の手つけをおいて後日購入されている。書物に対して、真理を追究される先生の意欲がうかがえるエッセーである。今でもその書物の裏に"齋藤様50銭"と鉛筆書きがしてあるそうで、書物を読まれるたびに当時を思い出し感激されたとのことである。
また、「朝、登校して正門に入る時、図書館の窓が開いているのを見ると、今日の学びを呼び掛けられているようだ。そして、夕方電灯がつくまで利用者が絶えないなら、それこそ、我らの図書館は生きていると言うべきだろう。『書棚』はこういう生命の中から生まれて来るのだと思う。若き日の尊い営みだ」と言っておられる。