2 視力0

つくしの絵

 昭和26年か27年だったと思う。アチーブ第一日の終了後校長室に呼ばれた。
 ―――何だろう。体調をくずした受験生はいなかったのに。
 ドアを開けると、校長、教頭をはじめ、アチーブ関係の先生方が顔をそろえていた。
 「高原さん、視力0で普通科高校の授業を受けるのは可能だろうか」
 と、教頭先生が真剣な目を向けた。
 「普通一般的に言う場合、視力0は何も見えないということと思います」
 と、答えて、受験した生徒についての質問だと気付いた。急いでことばを続けた。
 「視力は0.1から2.0までに表されます。そして、0.1、つまり、5メートル離れて視力表を見て見えない場合は、4メートルまで進んで、見えたらこれを0.08で表します。
3メートルが0.06、2メートルが0.04、1メートルが0.02、50センチが0.01とし、それでも見えないときは、目の前で手をひらひら動かして識別する眼前手動、それから明暗識別とに区分されると思います。でも、この生徒は答案を書いているのでしょう。それなら問題ないと思いますけど」
 「でもねえ、内申書に視力0と書いてあるんでね。それで、高原さんの意見を訊いてみようということになってね」
 「それなら、私がもう一度視力測定をしてみましょう」
 アチーブ終了後保健室に心配そうな顔で現れた生徒の名を呼んで、
 「視力検査ばちょっとすっけんね。心配せんでよかよ」
 と、落ち着かせ、測定した。0.08であった。
 「ようし、あんたの視力は0.08やけん、覚えといてね。試験できた?」
 彼は嬉しそうにうなずいた。
 合格発表の職員会議で真先に彼の氏名を探し、合格していたのが自分のことのように嬉しかった。
 彼は五島のy中学の出身であった。養護教諭の配置のない中学である。おそらく、担任が0.1が見えないので短絡的に視力0と報告したのであろう。
 当時は県全体の生徒数に対する養護教諭の配置数であった。長崎県のように離島僻地の多いところでは、養護教諭不在の学校が数多くあった。そんな学校では一人で3校ぐらいかけもちで、離島の場合は小さな船で1時間ぐらいかけて学校を巡回しなければならなかったのである。雨の日もあれば風の日もあり、雪の日もある。並大抵の苦労ではなかったと思う。
 現在、東や西のような大規模校には、養護教諭が二人配置されているのを見ると、今昔の感を深くする。
 私は1,500名近い生徒と大過なく過ごせたことをこの上ない幸せに思う。
 ―― 一人でやらんば、だい一人代わってくれる者もおらんとやっけん。
 なんて、一人で力み、使命感に燃えて―――。若かったのだ。あの頃は私もまだ。

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