長崎は地理的条件に加えて、鎖国時代唯一海外に開かれた場所であり、古代から現在までずっと海外への門でありつづけています。「長崎の海を渡るとそこは外国だった」わけです。この門を通って、人、物、文化などが出入りしています。その中には、稲をはじめ、いも、野菜、果実なども伝えられ、今日の豊かな食生活の基礎をなしているものが多くあります。先人たちはこれら外国からの作物を初めて手にした時、何と呼んだらよいのか、さぞ困ったことでしょう。
現在、普通に呼んでいる作物名のなかには、かつて外国からきたことを示す名称が数多く残されています。特に外国への門であり続けた長崎では、語源に痕跡を見ることができます。その一例を外国からきたイモ類(ジャガイモ、サツマイモ、サトイモ)にみることができます。
ジャガイモはジャガタライモから変化したものです。"インドネシア・ジャカトラ(ジャカルタ)のイモ"の意味があります。原産地は南米大陸で、新大陸の発見によってヨーロッパにもたらされ、その後慶長年間、オランダ船によってジャカトラ経由で平戸のオランダ商館に持ち込まれました。この時のジャガイモは単一ではなく、色も形も種々雑多で、赤、黄、丸、楕円、扁平など、現在でも南米インディオが栽培しているものに近いものでした。長崎でも戦後しばらくの間、このようなジャガイモ(例えば赤いジャガイモなど)をよく目にしたものです。
これら種々雑多なイモを利用して(専門語風に言えば豊富な遺伝資源を利用して)、長崎で品種改良が行われ、今日我々が口にしているジャガイモができています。西日本で栽培されている品種の大部分が長崎生まれというわけです。雲仙、橘湾を望む愛野の展望台の近くの小さな試験場で、数々の素晴らしい品種が生み出され、北海道に勝るとも劣らないジャガイモの大生産地になっています。
さらにこれらの品種は、世界的にみても類をみない高度な栽培法を可能にしています。すなわち、春ジャガ、秋ジャガの年2回栽培です。原産地南米大陸から地球を3分の2周してたどりついた長崎の土の中で、500年あまりの時を経て、豊かに育っているわけです。
※バレイショも北海道開拓の歴史を物語る呼び名です。北海道へは明治時代、直接欧米から導入されました。北海道開拓とは切っても切れない道産子につけた鈴(カウベル)にその形が似ていることから馬鈴薯と呼ばれているわけです。
サツマイモは薩摩のイモです。ところが九州地方では、長崎をはじめ、当の薩摩(鹿児島)でもカライモと呼ばれています。唐のイモ、すなわち中国からきたイモです。中国福建省で栽培されていたものが琉球経由で薩摩と長崎に伝えられました。長崎へは、1615年南蛮貿易の基地平戸に、ウイルアム・アダムスらの手によって持ち込まれました。
稲のように豊富な水や、肥料をそれほど必要としないサツマイモは、またたくまに長崎の主要な作
九州から南関東まで広がるうちに、唐(中国)のイモはすっかり薩摩(日本)のイモになってしまったわけです。
長崎ではナンキンイモ、あるいはナンキンと呼ばれています。来歴ははっきりしないのですが、この呼び名も長崎地方のサトイモが南京、すなわち中国からきたことを物語っています。もともとサトイモは、南アジアの主食の一つであるタロイモの仲間で、日本へは中国経由で伝えられ、日本全国に広まりました。
サトイモ(里のイモ)は、ヤマイモ(山のイモ)と対峙する呼び名です。ヤマイモが自生であるのに比べ、サトイモは人間が里で栽培するイモなのです。北関東から東北地方ではイモといえばサトイモのことです。
(後記) 飛行機や高性能な船で、直接目的とするものを簡単に入手できる現在、我々の身近にある外国品のネーミングの仕方を考えさせられました。海を渡って長崎にきたイモ類に、見たこともない外国の地名を付け、大切に栽培してきた先人の国際性と謙虚さに頭が下がる思いがしています。