石橋正敏(10回生)
何年ぶりかで、長崎の街に立ち青空の下、甘酸っぱい想いを胸に抱いて南国の故郷を眺めていると、ふといくつかの疑問が頭をかすめた。何故、長崎なのに諏訪神社なのだろうか、その下に、伊勢、八幡と連なる構図は何なのだろうか、市街地の標高20メートルから30メートルの景勝の地にびっしりと並ぶ寺々はいつの時代に完成した構図なのだろうか、交易と宗教の故に多分に人工的に構成されたこの町に、宗教の「棲み分け」の意図された構図がひそんでいるのではあるまいか、といったことであった。大光寺に墓参をして、父母の墓地から長崎の街並をみていると、ますますその疑問が強まり、帰京するとさっそく、神社・仏閣に、縁起を問合わせる手紙をしたため発送した。
いくつかの神社からはていねいなご返事を頂いたが、教会・寺院からは無視された。有名な禅寺からは金を先に送れとの返事がきて、私もいささかあきれてしまった。
長崎小太郎重綱を初祖とするこの地は、鎌倉時代末から数世妃の間深掘氏との確執によって幾度か戦火にさらされてきたが、1588年、秀吉によって公領地とされてから時の権力の直轄地として発展をとげることとなる。
それに先立つ1569年には、住民すべてがキリシタンになり『諸聖人教会』が初めて建てられた。1571年(元亀二年)に、内町六ケ町が開かれ、岬の先端には、サン・パウロ教会が建てられ、最初のポルトガル定期貿易船を迎えた。長崎の開港である。この教会は後に『被昇天のサンタ・マリア教会』となり、長い航海を終えた異国の船員にとって、船上から眺めるその教会の姿は夢みるような美しい光景だったようである。この敷地内にはイエズス会本部(会員約50名)や学校(生徒約80名、職員約40名)があり、わが国の初期キリスト教文化の中心地となった。蛇足ながらつけ加えると驚くべきことに、 この十年制大学ともいうべき学校は、キリスト教のみならず日本の歴史、礼法、仏教概論、ラテン語、音楽、絵画、天文学、数学、暦学も教え、オルガン時計、印刷機、天文器機等も製作していたという。
開港時の町の人口は、千人程度であったものが、1805年、内町‥‥外町が制定され てからは爆発的にふえつづけ、1669年には寵敷9341、人数53,522人にのぼると『崎陽群談』には記されている。
原図は1605年当時の地図であろうといわれている『寛永長崎図』(1636年頃製作)が、現存する最古の地図とされている。この絵は、内町と外町を白と朱でぬりわけ、港には幾多の南蛮船、唐船、和船の浮ぶ美しいものだが、この地図で読みとれる神社、仏閣は、諏訪大明神、本蓮寺のほか二、三にすぎない。奇妙なことに、現在の寺町通りにはほとんど寺院の書込みがなされていない。ということは、1605年当時は、1587年に秀吉のキリシタン禁教令が出され、1597年に二十六聖人の殉教があっても、長崎はまだキリシタンの地であったということであろう。1639年のいわゆる鎖国令までのキリシタン断圧の歴史は、長崎では数万の住民のほとんどがキリシタンであったために他宗徒との市街戦と、殉教の歴史であった。1622年の「長崎大殉教」でピークとなる栄光と悲惨の前期長崎切支丹史は次なる長崎唐寺史にとってかわられてゆく。
江戸幕府のキリシタン断圧の苛酷さは、来日唐人に大きな恐怖を与えた。キリシタンではないという証明のために、唐人達はきそって唐寺建立を計画したのである。
1623年、伊良林郷の唐人の小庵を興福寺と称したのが、長崎における唐寺建立の嚆矢となる。以来、唐人は出身地別に福済寺、崇福寺、聖福寺を建ててゆくが、これに刺激 されると共に、長崎奉行の政策も加わり、長崎港を見おろす標高20~30メートルの高台に在来仏教の寺院も続々と建立され、長崎を発信地として唐寺を中心とした仏教の一大 中興期が日本全国に広がってゆくこととなるのである。(これはいずれ別稿としたい)
1647年の『ポルトガル船に対する長崎港警備図』は、その規模も内容もまことに見事なものであるが、その地図上には、現在の寺町通り及び、立山から西坂に至るすべての寺院が書きこまれている。ということは、それに先立つ二十数年間ですべての寺院伽藍が完成したことを意味する。そしてまたその歴史の裏に長崎奉行の並々ならぬ宗教政策をうかがうことができよう。
もともと、本稿の最初の意図は、筆者自身が信州に移り住んでみて、何故に山国信州の諏訪大社が港の町長崎の『お諏訪さん』としてあるのかという素朴な疑問を明らかにしたいということであった。筆者の問合わせの手紙に対し、諏訪神社の権祢宣松本氏は資料をいくつか送って下さった。
昭和五十三年に長崎新聞に連載された元長崎新聞社主筆松浦直治氏の『くんち長崎』は、物語としても大変面白いが、諏訪神社縁起について詳細をきわめているので松浦氏の説くところに従って要約してみたい。
評訪大社は、社殿をもたない神社としてわが国の最古の神社の型式をもつのだが、大和朝以前の東北・内陸文化の中心として栄え室町戦国期以後は武神として全国五千社を数えるまでに広まっていった。当然、長崎においても、長崎甚左衛門らがキリシタンに帰依する前、その弟の長崎為英が深い関心を抱いて、風頭山の麓に分祠を開いた。一六世紀半ばのことである。
しかしながら、1563年に大村純忠が受洗するに従い、血縁の長崎氏一族も受洗した。そこで為英の諏訪祭祀も不都合となり、福田の教会にいたフィゲレド神父に相談をもちかけた。
驚くべきことにこの神父は、日本における神道の二派分立にもくわしく、中島川のほとりに天満宮を奉じていた威福院高順は本地重迹説の仏教神道であるからさけて、吉田神社の唯一神道系の人に託すようにと勧めたのであった。
長崎氏兄弟は純忠とも計って、大村の郷土公文九郎左衛門にまかせることとした。公文氏は、新しく自力で寺町の長照寺の前に社を建立したので、爾後ここを諏訪町と呼ぶようになった。
秀吉以後のキリシタン断圧は、当然の如く、キリシタン側の強い抵抗をうながし、全町キリシタンの長崎においては特に他宗徒との争いが頻発した。キリシタン側の投石と社寺の破壊は、問題が大きくならない程度の思慮を加えながらも激しく、由緒ある仏寺以外はほとんど破却されていった。
貿易の必要からキリスト教に寛大であった家康も、旧教ではなく新教の国々オランダとイギリスに通商の中心がうつるに従い、キリシタン断圧を強めていった。1614年5月 中旬に行なわれたキリシタンの行進は、長崎代官村山等安夫妻を先頭に数千人が町を巡り、数万の信徒が沿道にたって祈った。
これに危機を感じた幕府は、1619年、有名な『大追放』を行ない、宣教師62名と信徒53名がポルトガル船でマカオに追放され、また宣教師31名と信徒多数がマニラヘ送られた。このマニラ行には高山右近らも含まれた。
さらに1622年9月、後世『大殉教』とよばれる迫害があった。火刑25名、斬首30名で、これは二十六聖人と異り、ほとんどが長崎在住の信者であった。
こうした時に、独力で反キリシタンに立ちあがり、奔走したのが唐津の人で役行者でもある青木賢清であった。彼は1623年に長崎に入り、威福院高順をたずねた。
二人はお互いに神道の立場が異ることに気づき、高順は先の諏訪社のことを語って、その再建を勧めた。
賢清は、長照寺の門わきで『諏訪大明神』の柱を見つけ、また寺の和尚のすすめで、西山在住の田川二右衛門という篤信家をたずねたのである。ここで山留孫左衛門という篤志家とも出会い、大村に公文氏をたずねて、祠祭の役を譲りうけることとなる。
賢清はさらに京に上り吉田神社の卜部氏にすがり『長崎総社』という神階を受けることに成功した。これには、長崎奉行も驚き、この男を対キリシタン対策に利用できるともふんで、援助することとなり、現在地に新社を造営した。
1632年になると、京の卜部氏から『鎮西大社』の神階を許された。賢清は、大迫害により転びの者が氏子として参加することを歓迎し、ねんごろに保護を加え、神道のゆるやかな宗教性ゆえに、信者達をやわらかに包みこんでいったのである。1634年になって、長崎奉行のたっての勧めもあって、大祭を催すこととなり、摂津住吉大社の祭をまねて、初めて「おくんち」がとりおこなわれた。
松浦直治氏の説くところに従って、諏訪神社の縁起をみてきたが、これに前後するように、長崎の諸社が次々と建立されてゆく。
1629年に京都祇園社の分祠として現在の八坂神社が今篭町附近に建立され、特に、七月下旬の祇園祭は、長崎人の夏の風物詩のひとつとなってゆく。1639年には、伊勢神宮の分祠として伊勢宮が中島川のほとりに建立され、1653年には、京都男山八幡宮の分霊を勧請し大覚院を創立したことにより、八幡神社の起源となる。
これらはいずれも、諏訪神社建立の青木賢清と同じ山岳修験者によってなされたものであった。しかしながら、これら諸社が現在のような格式をそなえるのは、明治初年の神仏分離・排仏毀釈により、明治政府の政策的意図による神道振興策によってであった。
長崎市街図を拡げてみると、出島を焦点として、中島川の両側に八の字をえがくように社寺の連なりを見ることができる。東に、八坂神社、崇福寺、大光寺、大音寺、皓台寺、長照寺、延命寺、興福寺、浄安寺、三宝寺、深崇寺、禅林寺、光源寺、八幡神社、伊勢宮と続く。
北側に、松森神社、諏訪神社、長崎奉行所、永昌寺、聖福寺、観善寺、東本願寺、福済寺、本蓮寺と連なり、西坂の二十六聖人処刑地に続いてゆく。
この配置を眺めていると、明確に幕府側の意図が読みとれよう。しかしながら、これが他の地方でみられるように、すべてが中央の指示によるものであったと考えるのは、長崎の歴史的町人像からはしっくりとしない。
この街は大阪の堺とともに、完璧なまでの町人による自治の街であったから、この出島包囲陣ともみられる構図は、長崎町人と唐人の非切支丹表明の行動と、長崎奉行所の深謀遠慮の合作とみたほうが正しい、と私は思う。
今、長崎市街図の、先の社寺と出島を朱で囲んだ構図をみていると、かつて初夏の長崎の街に立って感じたあの思いが、「やはり‥‥‥」という感慨で満たされてくる。長崎の社寺配置の構図は、出島(キリスト教)包囲の為の鶴翼の陣だったのだ。そしてそのとどめの西山の丘の二十六聖人処刑の地が、明治初期、新たな宗教地図を展開するのである。
幕府は欧米諸国との通商条約の締結にともない、宣教師の入国と、居留地に教会を立てることを許してゆく。長崎にはフランス人宣教師ヒューレが赴任し、南山手に教会の建築をはじめた。天草の大工棟梁小山秀之進によって二年後の1865年、プチジアン神父のときに落成したのが大浦天主堂である。初めは、ジェスイスト様式とゴシック様式を折衷した三基の塔をもっていたが、1868年に現在の姿のゴシック式に統一された。
これは、当初『日本二十六聖殉教者堂』と名づけられ、北の西坂の二十六聖人殉教の地にむかいあって建てられたものであった。
美しくも、珍しい建物の見物衆の中の、浦上村から来た『クララてる』という婦人ら十数名がプチジアン神父のラテン語の祈りと同じ言葉を発したのが、世界宗教史上、真の奇跡にも近い「長崎切支丹の復活」であった。
この時、浦上だけでも三千数百名の潜伏切支円がいることがわかり、ついで長崎郊外の神ノ島、蔭ノ尾島、高島、伊王島、大山から外海にかけて、ぞくぞくと切支丹が発見され、長崎各地で5万名にも達したという。
この切支丹発見の報に、長崎総督沢宣郷は、明治政府の木戸孝允や井上馨に、全村流罪を進言し、実行した。これが世にいう『浦上四番崩れ』であり、1868年から6年間にわたる浦上村民3414名の悲惨な各藩預けの刑であった。
これについては、長崎純心女子大の片岡弥吉教授の名著『浦上四番崩れ』があるので省くが、明治6年3月に無事に帰村したのは八百数十名であった。
1925年に浦上天主堂が30年の歳月をかけて、六千人収容という東洋一の規模で完成するが、その後一万二千名以上にふえた浦上の信者も、1945年の原爆の後、また三千数百名にもどったという。栄光と悲劇をこれほどまでにあわせ持つ聖地を私はほかに知らない。
これは主として、吉村昭著『ふぉん・しぃほるとの娘』を参考にさせて頂いた。吉村昭氏は、現存作家中群をぬく調査力を持っておられ、氏の長崎への愛着とも相まって、長崎の昔日が生き生きと描写されている。
以上でもって、私のつたない覚え書を擱筆するが、まるで高校生の作文のようで恥入る次第。筆者はもちろんのこと、読み手の皆様も『東風』を手にするときは「心はいつも高校時代」ということでご容赦頂きたい。
十三回生堀憲昭君と語らって『長崎学』の確立をめざそうと力んでいる。それとは別として諸兄姉に、吉村昭著の『ふぉん・しいほるとの娘』と『戦艦武蔵』の二冊は長崎人として是非目を通して頂きたいと思う。