堀 憲昭(13回生)
フィリップ・フリッツ・フォン・シーボルトは長崎の出島文化のスーパースターといってよい。鳴滝塾に集う日本の俊英に西洋文化の刺激を与え、日本で収集した情報をオランダに持ち帰って、ヨーロッパ諸国の王侯、文化人にトータルな日本文化として紹介し、日本ブームのさきがけとなった。
シーボルトが生まれたのは1796年、独逸のフランケン地方の首都ヴェルツブルク市である。シーボルトの家柄はヴェルツブルク大学医学部産婦人科医の名門で、近代産婦人科医学の先駆者を祖父にもち、父も同じ道で嘱望されていたが早世する。シーボルトは同じ大学で医学を学んだのち、オランダの東インド会社が日本に駐在する医者を募集していることを知って、志願して採用される。
私がヴェルツブルクを訪ねたのは1990年の秋だった。ワイン好きな人ならフランケンワインといえば、あの扁平のボトルを思いだすだろう。ここはその生産の中心地、駅のキオスクにはワインが並び、マイン川に迫る斜面には葡萄畑が黄色に色づいていた。
駅からすぐに大学校内へ続く道を通ってヴェルツブルク大学を歩いてみた。ここからはレントゲンをはじめ、ノーベル賞学者を5人も輩出している。シーボルトはその先輩にあたるわけだ。町全体が 大学を中心にできあがった落ち着いた古い都の印象を受けた。
長崎に赴任したシーボルトは、たびたびヴェルツブルクの家族にあてて手紙を書いている。日本女性の恋人ができたこと、彼女と結婚したいと考えていることなど、若さと自信にみちあふれた様子がうかがえる。当時は、長崎からこの町まで、手紙が届くのに何カ月もかかった。自分を育んでくれた人々に知らせずにはいられない情熱が伝わってくる。
シーボルト通りというのがあると聞いて訪ねてみた。その通りはゆるやかな坂道だった。通りに面した建物の壁に「シーボルト・シュトラッセ」という表示プレートを見つけ、写真におさめた。近くの環状公園の一角には、髭を蓄えた晩年のシーボルトの胸像があった。オランダの東インド会社のお雇い医師だったシーボルトの功績は、ドイツでも高く評価されていて、その名は生まれ故郷にこうして残されている。
この町はロマンティック街道の名所として知られ、日本からの観光客も多数降り立つが、観光ガイドブックにはどれを見てもシーボルトのことは触れていない。ほとんどの日本人観光客はこの歴史的意味を知らずに去っていく。近く、ここにもシーボルト記念館が開設されるというから、ぜひシーボルトの生地として訪ねてほしいものである。
江戸東京博物館で『シーボルト父子のみた日本』という企画展が今年の4月20日から6月30日まで開かれた。この企画展は、ドイツ日本研究所のヨーゼフ・クライナー氏が中心になって、江戸東京博物館、国立民族博物館、それに製薬会社の林原、読売新聞などの関係者が企画実行委員会をつくって開かれたもので、2月に岡山の林原美術館で幕を開け、東京に巡回したあと、8月1日からは大阪・千里にある国立民族博物館で11月19日まで展示される。
出島の持つ重要性はいまさら論を待たないが、現在の長崎の町ではあの扇型の島は埋め立てによって町中に埋没している。最近、長崎市は、国指定の史跡である出島の復元事業をようやく実現しようとしている。1996年6月号の長崎市の広報誌『ながさき』は、計画の詳細を伝えている。ここに掲載した3つの図版はその引用である。
復元整備計画は、今年度から15年かけて実施される。島全体の復元から、オランダ商館あとのたてものの復元、中島川、銅座川の流れの変更などを、西暦2000年の日本オランダ修好400年までに完成させる予定だという。完成すれば、観光スポットになるばかりかシーボルトなど、ここに渡来してきたオランダ商館の人々と江戸時代の日本人との交流を思い起こす博物館になるはずである。
昭和62年に『出島図』という出島図版の集大成が中央公論社から刊行された。長崎市出島史跡整備審議会編のこの大著には、カラー図版236点が収録されている。これをひもとくと、出島がいかに大きな存在であったかがよくわかる。どの図版にも出島は中心に大きくデフォルメされ、詳細に描かれている。そこにはロマンの宝庫、希望の中心、絶望の監獄、それぞれの思いが込められていて胸が熱くなる。