長崎学のページ

小説「長崎ぶらぶら節」のあらすじ

 松尾サダは明治7年、長崎郊外の網場に、松尾甚三郎・ナカの次女として生まれる。網場の娘は置屋奉公に出るのが常であった。サダも10歳のときに丸山に行儀見習いとして奉公にでる。
 容貌に劣るサダは苦労をしたが、生来の芸事の才能が開花して、17歳の時に愛八(あげはち)という名前で芸者のお披露目をした。
 20歳を過ぎた頃にはめきめき売り出して丸山五人組としてもてはやされる。以後、五人組から欠けたことはなかった。
 愛八はたいへん義侠心の強い女性で、特に苦労をしている若い人、子供に対しては身銭を切って援助した。街角に立つ辻占や花売りの子供に、お座敷のお花代をそのままくれてやるようなこともしばしばで、売れっ子ではあったが、蓄えはなかった。いわゆる、宵越しの銭を持たない、江戸っ子気質を持つ芸者であった。
 角力、海軍好きでもあった。長崎で角力の巡業があると愛八の羽織が飛び、かけ声がかからないと始まらないとさえ言われた。ここでも若い人好きの性格が出て、関取になる前の若い力士を援助していた。このような縁で、東京大角力協会より木戸御免のバッジをもらっていた。宴席でも愛八の土俵入りは人気を博した。
 また、ワシントン軍縮会議により、建造されたばかりの戦艦土佐が呉に曳航され沈められるとき、海軍の宴席で土佐を慈しむ歌を即興で歌い、土俵入りで送った。

土佐は良い子じゃ この子を連れて
薩摩 大隅 富士が曳く
鶴の港に 朝日はさせど
わたしゃ涙に 呉港

 売れっ子で旦那持ちではあったが落籍されることはなく、初老を迎えようとしていた。その頃、市井の学者古賀十二郎と出会う。愛八は古賀に一目惚れをする。
 そんな古賀と宴席で再開する。古賀は愛八の芸を評価し、自分と一緒に埋もれている長崎の歌を発掘しないかと誘う。大正11年の頃である。 歌探しをしているとき、小浜に「長崎ぶらぶら節」を歌える老芸者がいることを知り、二人で採譜にでかける。その夜、二人は同宿をするが男女の仲にはならなかった。
 歌探しがひと段落した頃、愛八が可愛がっていた行儀見習いのお雪が肺病にかかる。愛八は自分のお金でお雪の病を治そうと決心をする。別れていた旦那から手切れ金を貰っていないことから相談に行くと、弟が既に受け取りにきた言われた。網場の実家に行って弟を問いただすと、父の面倒をみたのだから当然のことだと門前払いを受ける。その夜、「浜節」を作曲する。作詞を古賀に頼む。

 昭和5年、日本の民謡を発掘していた西倏八十に宴席でぶらぶら節を披露する。西倏はレコード化の話を進め、ビクターで吹き込み発売される。

 愛八の献身的な援助によりお雪の病が癒える。昭和8年頃のことである。しかし、お雪の全快と引き替えるように昭和8年の年末、愛八は脳溢血で倒れ、30日死去する。花月の下にあった愛八の住まいには何もなく、畳の縁布で作られた土俵と古賀と発掘した歌の本があるのみであったという。
 明けて9年、1月8日に愛八の葬儀が寺町浄安寺にて執り行われる。海軍、角力関係者はもとより、愛八にゆかりの人たちが参列した盛大な葬儀であった。この葬儀の模様が翌日の新聞に載った。集まった香典をどう使おうかということになった。宵越しの金を持たなかった愛八を供養するには、花月で賑やかに騒ぐのがいちばんだろうということで、大挙して花月で宴をはる。古賀を先頭に、検番総揚げで「長崎ぶらぶら節」が歌われ、踊られた。

愛八、享年60歳。

 古賀はその後お雪の面倒をみて、昭和29年76歳で死去する。 お雪はまだ健在で、おくんちの奉納踊りのぶらぶら節をみて愛八をしのぶ。


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