ぶらぶら節とは、長崎の風俗、名物、時事を織り込んだ流行歌である。
起源は古く「やだちう節」から出ている。「やだちう節」はもともとは豊年歌。「摂陽奇観」の宝永三年(1706年)のくだりに
おれをこのよに ずんばらましてナア
ごていになれては おらやあだとじゅうナア
しんからいやではなけれどもナア
○○おらんやんだとじゅうナア おらやんだとじゅうナア
とある。
64年後の明和七年(1770年)に出版された洒落本「辰巳の園」には
おいらを狐がはらませて
御亭になろとはわしゃやです
やですやですでもです 真実やあではなけれども
人目ははずかしけりゃわしゃやです
やですということはいわねえもんです
とある。
宝永の上方の豊年踊り歌が、明和では江戸の遊里の流行歌となった。 それが、城ヶ島の台場ができた嘉永三年(1850年)には「嘉永三年戊年流行やだ中節」として、
海老が海鼠(なまこ)を口説いたちゅ
色になれとはおらいやだちう
やだちうやだちうといわねえもんだちう
など 10首が挙げられている。
「唐人はうた図絵」嘉永四亥春新板表紙裏には「しんぱんやだちうぶし」とある。本文にはやだちう節のことを「ちうちうぶし」と書き
おのぼり一本おくれなもう
虎がついているのはやらねえちう
やだもうやだちういはねえもんだちう
真実いやではなけれども
後で知られるのがおらやだ中山王
やだちうやだちうといはねえもんだちう
と出ている。
寛永が上方、明和が関東、文政に上方、嘉永に関東と交替で流行した。いずれも二上がりの(三味線の調子)ほがらかで陽気な節。やだちうが長崎に流れて、優雅なぶらぶら節になったと思われる。
明治初頭から大正の初めまですたれていたこの歌を復興して、長崎の代表的な民謡としたのは、丸山の名妓・愛八と古賀十二郎である。
「長崎の民謡」長崎新聞社編より