長崎学のページ

浜ぶし


浜じゃ エー 浜じゃ網ひく 綱をひく
陸(おか)じゃ 小娘の 袖をひく

今宵 エー 今宵泊まりの 港に入りて
波も 静かな かじ枕

沖の エー 沖の瀬の瀬の 七瀬のあわび
竿で 届かぬ 見たばかり

わしが エー わしが生まれは 高島生まれ
明けの 六つから 鯛を釣る

沖の エー 沖の三ツ瀬を 白帆が通る
あれは オランダ なつかしや

 二上がりの品のある歌である。
 小説では、愛八が浜ぶしを作ったのは昭和3年。弟の裏切りにあい傷心の中で、父を偲んで江差追分を思い浮かべて作ったとされている。この節に古賀十二郎が詩を書いた。

 いっぽう、愛八がぶらぶら節のb面としてレコードに吹き込んだのが昭和5年、愛八と十二郎が知り合ったのが大正末期から昭和初期とされるので、この数年間に作詞・作曲されたのは間違いないことであろう。
 では浜ぶしが、愛八・十二郎の完全な創作であったかというと、そうではなくお手本があったという説がある。
 浜ぶしの起源をたどると、新大工町にあった舞鶴座という芝居小屋の舞台にたどりつく。舞鶴座は建坪六百坪の木造2階建てでたいへん豪華なものであったという。明治41年、この舞鶴座に中村雁治郎が来演した。この舞台で雁治郎は住吉踊りを舞った。

浜じゃ エー 浜じゃ網ひく 綱をひく
陸(おか)じゃ 小娘の 袖をひく

 十二郎はこの歌詞を参考にして浜ぶしを作り、節付け(作曲)を愛八に依頼したとされる。節付けをするときは、紺屋町の十二郎の自宅で夜遅くまで苦心を重ねたそうである。近所から三味線の音がうるさいと苦情が出たという。小説にも描かれている愛八の十二郎の歌づくりのエピソードである。
 なお愛八の芸は飛び抜けており、端唄、長唄、清元、常磐津と見事に歌ったと伝えられている。中でも追分けは絶品中の絶品であったという。一説によると、本石灰町に住んでいたアイヌの子孫の女性から、追分けを習ったという。

 浜ぶしの中に

わしが エー わしが生まれは 高島生まれ

とあるところから、愛八は高島生まれで、網場村の松尾甚三郎の養女となったという巷説が生まれた。

 なお、レコードに吹き込まれなかった詩に次のようなものが残されている。

番所の エー 番所の浜の あの松で
ちょと出て 立石眺め 向こうは三味線島恋し

波の エー 波のつづみの 色さえわたり
ひかり さやけき 瓊の浦

 愛八は生前、「歌は品良く歌え」と言っていたそうである。この品が富貴楼の客としてきていた声楽家佐藤美子を引きつけ、レコード化の道を作ったのであろう。さらに、なかにし礼氏が愛八の歌声を聴き、「この人はなぜこのように歌うのだろう」と心を揺さぶられ、小説を書くきっかけになったのである。

 ひと昔前までは、愛八を知る古老が、愛八のレコードを聴いてはその人柄を偲んで涙を流していたという話も伝わる。

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