長崎学のページ

愛八の生涯

若き日の愛八 
晩年の愛八(花月にて撮影)
 写真提供・松尾絹子さん
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小説と史実

 小説「長崎ぶらぶら節」は、丸山芸者の愛八(あげはち)と、長崎学の基礎を確立した市井の学者・古賀十二郎が、埋もれていた長崎の歌を発掘する話を縦糸に、愛八の生き様を横糸にして紡がれた見事な作品である。また、史実を丹念に掘り起こし、長崎の町と人を生き生きと描いた手腕はまさに直木賞に値するものである。しかし、小説。そこにはフィクションがある。だからこそ、小説といえる。

 一方、愛八の生涯をたどってみると、小説とは違う面がある。「長崎楽会」のメンバーとしてはそこに興味を持った。まず、小説における愛八の生涯と、長崎の文献などに記されている生涯をくらべてみよう。

年 月 小 説 史 実
明治7年 10月23日 網場にて父 松尾甚三郎 母 ナカの次女として生まれる 網場にて父 松尾甚三郎 母 ナカの次女として生まれる
明治16年 7月17日 10歳 丸山の島田屋(置屋)へ行儀見習い  
明治18年 12歳 見習い期間を終え舞子となる 名前は愛八(あげはち)  
明治23年 秋 17歳 芸者お披露目 17歳 丸山の置屋末吉から愛次の妹としてお披露目
明治24年 18歳 旦那持ち 旦那は関根重蔵(食品貿 易商) 20歳を過ぎた頃にはめきめき売り出して丸山五人組としてもてはやされる。以後、五人組から欠けたことはない 18歳 かねつき祝いをして旦那もちに 派手な顔だちと芸熱心で売れっ子になる。小高、桃代、園吉らとともに丸山五人組として有名な存在に。
明治45年 東京大角力協会より木戸御免のバッジをもらう  
大正2年 大阪大角力協会より木戸御免の免状もらう  
大正11年 東京大相撲の長崎巡業で古賀十二郎に出会う  
大正11年 11月 十二郎に長崎の歌探しの手助けを求められる
本格的に歌探し始める
 
大正14年 11月頃 小浜の老芸者にぶらぶら節を教わる
本格的に歌探し始める
古賀十二郎との付き合いは昭和の初め頃
昭和3年 浜節を作曲 古賀十二郎が詩をつける 町検の凸助がニッポノホン(現・日本コロンビア)で長崎ぶらぶら節吹き込み
昭和5年 宴席で西倏八十に出会う レコード化の話
ビクターでレコーディング
(a面ぶらぶら節 b面浜節)
富貴楼の客、声楽家の佐藤美子と出会う。佐藤の紹介でビクターで長崎ぶらぶら節吹き込み
昭和6年2月   レコード発売
昭和6年6月15日   熊本放送開局3周年記念放送に出演 ぶらぶら節歌う
昭和8年12月25日 脳溢血で倒れる  
昭和8年12月30日 午後4時30分死去 享年60歳 死去 享年60歳
昭和9年1月8日 寺町浄安寺にて葬儀
戒名 愛誉八池貞水大姉
墓所 梅園天神の上 上小島の丘
寺町浄安寺にて葬儀
戒名 愛誉八池貞水大姉

 小説と巷間伝わる史実との違いは、愛八の出生である。小説では愛八は捨て子として描かれている。史実では、「そのような言い伝えもあるが、きちんとした戸籍もあるので誤りであろう」としている。
 さらに小説では、家督を相続した弟の裏切りにより愛八の悲劇性を際立たせているが、実際には姉弟の親密な交流があったようである。愛八の死後、その位牌を守ってきたのは弟三代治の娘である長女・吉村治美さん(桜馬場在住・逝去)とその妹の松尾絹子(桜馬場在住・92歳でご健在)さんであった。

 また、愛八が十二郎に恋心を抱いていたかどうかはわからない。しかし愛八の気質である。身代を潰すほどに長崎学の研究に打ち込み、風俗史研究のために放蕩三昧にみえる生活をおくっていた十二郎を憎く思っていたとは考えられない。
 さらに十二郎にしても、気っ風がよく芸達者で、エキゾティックな風貌の愛八を贔屓にしていたとしてもおかしくない。だからこそ長崎の歌探しのパートナーに選んだのだろう。二人の関係は長崎の歌を発掘するときの戦友のようなものだったのではないだろうか。

 史実の通りに小説で描かれていたら、随分と平板なストーリーになっていたことだろう。小説では弟の裏切りが愛八の孤独を浮き立たせてドラマティックに描かれている。

 そうは言っても、この姉弟の相克と愛八の恋心を除いては、小説は愛八の人柄、生き様、そして長崎の生活・風俗の様子を正確に蘇らせている。著者・なかにし礼氏の調査力と創造力に敬意を表するものである。


愛八の家族

愛八の姉弟・親族

愛八は、網場の松尾甚三郎、ナカの次女として生まれた。5人姉弟の2番目の子供であった。

長女マス
次女サダ(愛八)
三男品太郎(改名・三代治)
三女スエ
次男恒次郎

 文献などでは三代治が三男と記されているところから、長男・次男はいたのかという疑問がわくが、姪の松尾絹子さん(三男の三代治の娘、明治41年生まれ・92歳、桜馬場在住)によれば「父に兄はいなかった。長男であった」ということである。あるいは夭折されたのかもしれない。

 松尾絹子さんが、現在愛八の位牌を守っている。松尾さんの姉、長女・吉村治美さん(明治36年生まれ)は平成7年頃(?)亡くなられた。
 松尾さんと吉村治美さん(テルミーの先生であった)のお弟子さんが語るところによると、松尾一家は愛八を「あいはち」と認識していた。ふだん呼ぶときは「おばさん」と言っていたそうである。
 松尾絹子さんの兄二人は、それぞれ九州大学、長崎高商(現・長大経済学部)に進学している。また、女性も女学校に進学しており、それぞれ高等教育を受けており、教育熱心な一家であった。
 愛八は花柳界の人間であったが、芸に対する姿勢、その人柄で家族から尊敬されていた。小説にあるような姉弟の不仲・確執はなかった。
松尾一家(たぶん三男の三代治一家)は小島に住んでいたが、愛八の家と頻繁に行き来をしていたそうである。
 さらに愛八の妹の三女スエの娘である福富キミ(旧姓は不明)は愛八の養女となり、愛八はたいそう可愛がっていた。キミは長崎高女(東西両校の前身校)に進学した。たいへん可愛らしい女性だったそうで、神戸出身の長崎高女の女性の先生に気に入られて、その先生の弟さんのお嫁さんにと乞われて神戸で結婚した。福富キミさんは5~6年前に亡くなられたそうである。

 愛八は、自分の名前を誰かにつがせたかったそうだが、愛八の名にふさわしい芸を持つ芸者がいなくてあきらめたそうである。
 愛八の人柄は小説にあるとおり、困った人をみると助けずにはいられない性格で、貧乏な学生などをみると援助をしていたそうである。援助を受けた学生が大成してから御礼に訊ねてくるといったことが、頻繁にあったという。
 愛八の葬儀は寺町の浄安寺にて執り行われたが、そのときの住職のお孫さん(藤島さん)が現在の住職をされている。毎月の愛八の命日には住職が松尾さんの家にお経をあげにくるそうである。

 なかにし礼氏は、小説を執筆するにあたって、松尾さんのところに越中哲也氏(郷土史家)とともに見えられて取材をしたそうである。その時、大相撲の木戸御免のバッチを見せたところ、女性が大相撲の木戸御免の特典を受けることは大変珍しいことと驚かれたとのことである。
 松尾さんは、小説では愛八が姉弟と仲違いをしたというストーリーになっていることは知っておられるようだが、これはあくまでも小説ということで理解を示されているそうである。むしろ、愛八を取りあげてもらったことを喜んでおられるそうである。

 なお、なかにし氏は、「長崎ぶらぶら節」の映画化と芝居の上演に強い意向を持っているとのことである。映画は今年(平成12年)の5月頃から撮影を開始し、年内には上映をめざしているそうである。もちろん、長崎での長期ロケも計画しているという。


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