鎮信
本は意外なところで奇縁を生む。
行きつけの薬局の奥さんは「はがき随筆」の名手である。四百字前後のエッセイを趣味にしている人で、感性豊かで強靭な文章を書く。
「店の前に置いている花は『鎮信』という名の花です。北松浦の知人からいただいた苗で、今年はじめて花を持ちました。『小麦』という花はピンク色で、昨年は咲いたのですが今年はまだです。対にして見ると、とてもいいのだそうですが……」
拙著『雷峡』を読んだのをふまえての話であった。
「鎮信」は「侘助にも似た山椿」と書いていたのにそっくりの、可憐で、凛とした真紅色の花であった。柔らかな冬の日差しを受けて二輪が輝いていた。
はじめて見る花であった。拙い小説を出版したおかげで、しばしの眼福に出会え、ほのぼのとした気分に浸れた。
松浦鎮信は苛烈な戦国武将のイメージが強い。この小さな椿の感じにはいささか遠い感じがしないでもない。おそらく、先に「小麦」と名付けられた花の対として「鎮信」の名が与えられたのであろう。
「小麦さま」は実際は数名いたらしい。しかし、『雷峡』では「小麦」をチャーミングな頭の切れる女性にしていて、椿のためにも良かったなと思う。
イ モ
「俺とお前は違う人間に決まってるじゃねえか。早え話が、お前がイモ食ったって、
俺のケツから屁が出るか」
ということばがあります。
地区ptaなどで、話をしなければならないとき、私はよくこうきりだしていた。
反応が面白い。
インテリ・ママは、ほとんど百パーセント近くが、「イモ」と「ケツ」と「屁」に拒否反応を示す。眉に皺を寄せ、唇を曲げ、不快感をあらわにする。
「おなじみ、映画『男はつらいよ』のなかで、フーテンの寅さんが、甘ったれをたしなめるセリフです」
と、続けると、ママさんたちの表情は、露骨な軽侮の色に変色する。
そこで、おもむろに中公新書を取り出す。
「関西大学教授で、著名な文芸評論家、谷沢永一先生のお書きになった『百言百話』 という本です。谷沢先生は、この本の第一番目のことばとして、『お前がイモ食ったって、俺のケツから屁が出るか』を上げ、次のように述べていらっしゃる。
――人間はどんなに親しくても、所詮は他人である事情を、これほど見事に言い当てた警句は他になかろう。(中略・もちろんチュウリャクなんて口には出さない)世界名句集にも必ず採録すべきである。
「世界名句集」に、「イモ」と「ケツ」と「屁」並の力点を置いて話すのである。そして見渡すと、ママさんたちの表情は一変して、感嘆と賛同の色を濃くしている。なかには「知っていましたわ」と言わんばかりの顔もある。
テストをすると、百五十人いれば一番から百五十番まで出てくるのが当然である。しかし、人間としての魅力では、この順序は逆転することもあり得る。たった一回のテストで発揮される学習能力と、その人が本来備えている人間的能力とは別物なのである。子供の人間としての魅力を認め、それを伸ばすには、子供をマルゴト信じることである。
「お前と俺とは違う人間に決まってる」からこそ、人の世には厳しいルールが生まれ、違う人間を結び付ける礼儀がある。それを明確に体得させることが、教育の根幹である。
こんなふうに話を進める。
大きなウナズキが返ってくる。
それを見ながら、私は心のなかでタメイキをついている。ウナズキの大きいママさんほど、個人面談になると、子供の成績順位のみに目の色を変えるからである。
残照
山口光太郎君が亡くなって一年が過ぎた。
老いの身に教え子の死は応えた。
田平君と井上さんから、彼の死と、その前後を聞いた。
「死」を最終目標とするシナリオを書き、それを忠実に、一筋に、着々と演じたように思えた。それは、いかにも彼らしかった。
しかし――と、私はつぶやいていた。
彼は目標の選択を誤った。「死」を目標として見据える時は、己の体力の限界を認識したときであっていいはずである。そういう時でも充分「死」を目標とした「生」のありかたを実践することは出来ると思う。たとえ、その「生」が意にそまなくても、目標を見据えた生の充足は図れただろうに――。
人生は目標設定の連続であると私は思っている。目標の選択肢は多様であり、その選択の仕方も、目標達成の方法も各人各様である。目標へのその人なりのアガキが人の生そのものであろう。
目標の選択肢が一つに絞られたとき、つまり、「死」を目標に置いたとき、残された「生」をどう生きるか、それが問題である。
山口君の死は、私に、そう遠くはないであろう選ぶべき選択肢が一つに限られたときのことを思わせた。
「山口光太郎君を偲ぶ会」で、冒頭、
「なぜ相談しなかったんだ。カッコつけやがって。自分だけ先に逝きやがって。ばかやろう」
と、前会長のs君が叫んだ。おそらく集まった同窓全員の心情を代弁したことばであったろう。誤った選択肢を選んで、着々と準備を進めた山口光太郎という男を惜しむ悲しみがあふれていた。
「先生、男の人って弱みを見せまいとするのでしょうか。……こんなにたくさんの人
が光太郎さんのために集まっているのに……」
私の側で涙ぐんでいる人がいる。
「山口光太郎君が自ら選び、自ら決したことについて、私は言うべきことばがない」
と、私は挨拶していた。取り返しのつかないことをした彼に、何が言えよう。惜しみ、悲しむ者を多く残して去った彼に対して、「今は安らかに眠りたまえ」としか言いようがない。
彼の「死」を聞いてから半年のほど、私はペンを執ることが出来なかった。ようやくそれが出来たのは九月になってからであった。それは、彼への決別の作業であった。
作業をしながら、私は時折、作家で文芸春秋社社長であった佐々木茂索氏の晩年の作という歌を口ずさんでいた。
ひとみなの いのち亡ばば 亡ぶべし
おのがいのちに つつがあらすな
残照をいとおしみながら、私は「余生」を私なりのブザマな生で充足させる他にないことを改めて思う。
残照のなか、「ひがし」の生徒諸君から受けた恩恵に、心から「ありがとう」を言う私がいる。
そしてまた、残照のなか、激しい胸の痛みにうずくまっている私がいる。あの時、彼に接するにはかくあるべきであった――という悔恨である。
さらにまた、残照のなか、過ぎ去っては再び還らぬ時の非情さに、なす術もなく茫然とたたずむ私がいる。
そんな残照のなか、『花は野の花』を、感謝の思いで閉じたいと思う。
御身お大切に。
ありがとう――。