私は今『甲子夜話』を読んでいます。
甲子夜話――随筆。肥前平戸藩主松浦清(静山)著。1821年甲子の夜より起稿し、
正編100巻、続編100巻、つづいて後編100巻のうち80巻まで書き続けて
没す。大名・旗本の逸話、市井の風俗など、その見聞を筆録する。(広辞苑)
面白い一文を発見しました。200年ほど前の長崎港を想像しながら、一人で楽しむの
は勿体ないと、今回はこれを転載することにしました。
巻七 九 パイロン〔此事嘗有長崎〕
長崎にパイロンと云ふことあり。是は漢土の競渡なり。崎俗は競船と書す。予、崎人に
其ことを問たるとき、記して答しものあり。其ままを左に録す。
- 舟の長さは十間内外、夫より六七間、小は三四間ほどなり。
- 此舟は常と異にして、はば狭く、たけ長し。これ軽くして疾(はや)きを主とすれば
なり。因て常は無用にて囲置なり。舟の形鯨舟の如し。又当地の猪牙舟(ちょきぶね)
に似たり。
- 舟の舳先(へさき)に其町々の目印をつくる。舳を黒く塗、白朱などにて様々のもの
を絵(えが)く。
- 舟の中央に銅鑼一つを懸け。此拍子にてかけ引きをなす。
- 又舳先に一人、小き太鼓を持て、艫(とも)に向ひ仰(あおむ)けにまたがり、臥て
これを打つ。銅鑼太鼓の打手は、縮緬杯(など)の単物(ひとへもの)を思々に着し、
同じきれの襷を掛る。舳先の太鼓打は、緋ぢりめんなどの襦袢を着、同くたすきをかけ、
一きは花やかに出立、手拭の鉢まきをなす。此打手は、大舟は大人、中舟小舟は十二三
前後の少年也。
- 舟中に頭立て巧者なる男、紙の采配を執て指揮す。
- 大舟は、舟の片側に二三十人、左右六七十人ほど、皆櫂(かい)をつかふ。中舟小舟
は人数の多少有りて、小舟には十三四歳計(ばかり)の少年のみもあり。是も櫂二三十
挺ほど也。
- 中舟小舟は崎人乗れども、大舟は近浦漁夫の壮健なるを撰(えらみ)、雇ひて用ひざ
れば、容易に舟行かず。因て崎人の乗組は、太鼓銅鑼采配を執者のみ。其外にも宰判を
するものあるは、常々男達(おとこだて)と呼ばるるものを撰み乗らしむ。
- 又、銅鑼太鼓の巧拙にて、舟行の遅速大にあるよし。櫂とりは、総て舟端に腰をかけ
舳先に向ひて後の方に潮をはねる故、甚力を労せり。此ものは裸体にて鉢巻をす。又此
者の勢ぬくるときは、大なる柄杓にて潮を頭にかくるなり。又揖を用て専ら旋回をなす
故、揖とり老巧にあらざれば、大に勝負の得失に拘(かかは)ると云。
- 中央に用る太鼓は殊に大なり。銅鑼は舶来也。舳先に用る小太鼓も舶来にて、片面を
張、胴は至りて浅し。夫ゆへ片手に縁(へり)を持て打つ。声至りてかんばりて聞ゆ。
- 年々定日、五月五日六日両日にして、朝五つ前後に始まり、夕は暮に及んで止む。
- 場所は、木鉢口を出、高鉾嶋、上の嶋〔地方より凡(およそ)十四五丁沖の方、右左
にあり〕と云ふ両嶋の間より舟を発し、沖の方医王島〔前の両島より沖、南方一里半ば
かり〕の辺を限りに、両舟相並んで勝負を為す。然ども大舟は其界を越ても勝負を別た
ず、沖の方遥に三四里も競出て、其迅速比類無くして、暫時に目力の不及(およばざる
)所に漕行(ゆけ)り。
- 又、舟の大小に随ひ各等を以て相対し、小大打交り、所々にて幾組も勝負を争ふ。
- 其当日に出る舟、凡百艘、此余見物の舟夥く海面に相連り、金鼓の声数里に振ふ。
- 又、大舟を競争には、艫の方より大綱を引き、壮健なるもの数人舳の方へ引く。かか
れば舟の迅速を助くるなり。
- これ二十五六年前迄は、年々有之て、時々争論少なからず。一年大に闘合に及、死亡
の者も有て、其より崎尹(きいん)厳禁を令し、於今は絶てなし。廿歳以下のものは其
盛なるを知るものも無く、今は昔話と成ぬ。
- 此こと今清国にもありと、崎尹中川氏の著せし『清俗紀聞』にも載たり。其文に、何
の代より始りたると云ことは審(つまびらか)ならざれども、往古より屈原を吊(とむ
ら)ふ為の遺俗なりと云伝ふと。吾邦のも其始は彼俗の東漸せし歟(か)。
追記
又進だる方は、後(おくれ)たる舟の舳先に漕回し、舟を横たゆるを勝とす。因て互に
尺寸の出入を争ひ、少にても進み出たる方、迅速に舟を漕回す。是れ揖取の機発にあり
て、骨を折ところなり。
- 町の中にて、船手、陸手は二手ありて、何ごとにも組合を立つ。因て此時にも舟手と
唱ふる町は出て、陸手は出ず。
- 此こと、安永天明のころ迄は崎の湊中(そうちゅう)にて有しが、其後これを禁じて
湊外にて為すことになりたり。
- 以前は竜頭、竜尾を作り、さまざまの舟飾ありしと云。
以上、ほぼ原文のまま写しています。
五月といえば、当時は真夏です。長崎の湊の、文字通り良い紺碧の海を、ペーロンが彩
る―――、何か夢みたいな感じで、どきどきしながら読みました。そして、十数回は唐八
景から眺めた湊を懐かしみました。
いつでしたか、久しぶりに帰崎したn君が漏らしたことばが、印象に残っています。
「波に沈む夕陽ば見たか――」
彼は港外に車を飛ばし、心行くまで、波に沈む夕陽を眺めたと言います。
そろそろお盆が近づきます。長崎にお帰りになったら、青い海原に落ちてゆく夕陽をご
覧になったらいかがでしょう。
それにしても、松浦静山というお殿さま、すごい記録魔ぶりです。こういう記録魔がい
て、はじめて歴史に血が通ってくるように思います。いま、私の最も興味を覚える人物が
静山公です。メモを片手に、『甲子夜話』にのめり込んでいます。
今回は、近況を兼ねて、狡い書き方をしました。たまには、こんなのもいいでしょう。
―了―