卒業の季節にタイトル画像

 東高で最初の卒業式を迎えたのは昭和三十三年であった。
 予行を見て驚いた。
 横田先生が、ぽつん、ぽつんと要領を説明なさる。
 「卒業証書授与……、そこでみんな起立、校長先生に会わせて礼……」
 起立、礼、着席……といった号令は一切なかった。式次第が読み上げられるだけであった。
 生徒は聞いているのやらいないのやら、のろのろと動いて、二十分ぐらいで終わってしまった。
 ――どんな式になるのだろう。セレモニーは一糸乱れぬ演出こそ命なのに。
 手抜き指導じゃないかと見上げた横田先生は、首を縦に振りながら、
 「今年は立派かごたる」
 と、つぶやいて満足そうである。
 私の危惧の念は卒業式当日大きな感動に変わった。
 なんとも言いようのないスマートで整然とした式が進行した。昨日の予行が嘘のように生徒は見事な動きを見せるのだった。
 私は、すごい生徒たちのなかにいるのだと、改めて思い、襟を正した。

 「先生、何を言えばよかとですかねえ」
 昭和四十年、十七回生の答辞を読むことになったニノ方君が、彼独特のはにかみを漂わせる笑顔で相談に来た。
 「『自由』をテーマにしようよ」と、私はムリヤリ押しつけてしまった。
 ――自由と放縦は異なる。「自由」が「自由」として認められるための必須条件は自律の精神である。自律なきところに、「放縦」はあっても「自由」はない。東には自らを律することの大切さとむずかしさを学んだ。
 といった論調であったと思う。
 式は中庭を見下ろす講堂で行われた。折から降りだした雨の音のなかで、ニノ方君の声は静かに堂を圧していた。
 卒業後、夏休みに遊びにきたニノ方君は、酒を飲みながらつぶやいた。
 「でも、先生、東に自由はありませんよ」
 「うん。大学じゃないからね」
 と、私もつぶやいた。
 ただ、私は東に「自由」を取り戻したい思いが強かった。放縦が幅を利かせると、いきおい規則の徹底が強くなる。かつての「放っていても大丈夫な東高生」の姿が消えてゆきそうな、そんな危惧感を抱いていたのである。
 島田清春先生は、式後、
 「やっぱりニノ方はすごい」
 と、私と同じ危惧の思いを口になさった。
 東高の校風は現在も「自由」ということになっているのだが……。

木蓮の絵

 昭和四十五年、二十二回生の卒業式は、重苦しい緊張感を漂わせて開始を待っていた。
 靴音がコトコトと床に鳴った。数カ所でそれに応じた。そして、「やめろ」と叫ぶ声がした。生徒指導部の先生が声を上げた生徒をゴボウ抜きに体育館から連れ出した。
 式場はもとの静かさに戻った。しかし、生徒たちの表情に曇りがあった。
 式は滞りなく終わった。ブラス・バンドもいつもと変わらなかった。
 私は緊張していた。連れ出された生徒よりも、残って無事に式を終了させた生徒たちの思いを思いやって胸が痛んだ。私は退場する生徒たち、ことに私のクラスの生徒を見つめていた。そこには、例年と同じ顔があった。私はわけもなく涙ぐんだ。嬉しかった。
 この一年間、高校生の政治活動で学校は揺れた。
 教室でもどこかにいつも隙間風が冷たかった。
 「ぼくの授業のどこが文部省の言いなりなのか、どこが受験対策のための授業なのか、具体的に言ってみろ」
 あるクラスで「批判」されて、私は声を荒らげていた。
 「この教科書が文部省検定教科書だから悪いというなら、代わりの教材を持ってこい。それで授業するから」
 とも。
 つらい一年間であった。それだけに私は教材研究は例年になく綿密にしていた。向こうを向いた生徒と通じる道は私にとって授業以外になかったからである。しかし、彼等はそれを受け容れようとはしなかったように見えた。救いは、私のクラスの諸君と、痛ましそうに私を見る視線に遭ったことである。
 人間、何かに囚われると周囲が見えなくなるらしい。いや、自分自信をも見えなくなるらしい。「反戦」を口にしながら、「防衛の必要性」を言おうとした高校生を、「ナンセンス!」の一言で黙らせた進歩的文化人o映画監督をテレビの討論番組で見て、これは戦時中の言論弾圧と少しも変わらないではないかと思った。大人のo氏はなぜ高校生の素朴な意見や疑問に耳を傾けないのか。相手の意見を聞くことが討論の基本的姿勢なのに―――と。私は意地になってその後o氏監督の映画は一本も見ていない。「ナンセンス!」で 彼の映画作品を一蹴することにしたのである。
 私は毎夜原稿用紙に向かうようになった。そうしなければ精神のバランスが崩れそうで怖かったからである。今思えば逃げ場を求めていたのだとも思う。追い詰められて出来た作品が『水車の歌』である。学校が静かになりはじめたころある新人賞に応募、佳作に入選した。川口松太郎氏の選後評に
 「主人公の生い立ちから豊かな農民になってゆく過程は面白く書けているのだが、一揆に移ってゆくところから唐突で、必然性がなくなり、最後がつまらなくなる。前半は描写も優れているのに、なぜあれを一揆に持ち込んだか、残念の一語に尽きる」
 とあった。しかし、私には一揆に強引に持ち込まねばおさまらない精神状態だったのである。
 私はこの年の「卒業生を送ることば」に次のように述べている。

 人生は繰り返すことはできない。しかし、積み重ねることはできる。
 何をどう積み重ねるかは、人間永遠の問題であろう。
 「何を」を持たぬ者は、生えているにすぎない。
 「どう積み重ねるか」が、むずかしい。
 自己省察が浅ければ、独善に陥る。土台が弱ければ、砂上の楼閣となる。
 謙虚さを忘れると、積み重ねの作業は一歩も進むまい。
 独善的に砂上の楼閣でダンスをするような愚を避ける明知が欲しい。そのためにも、自己の積み重ねの一段ごとに、自分の歩みを色眼鏡をはずして検討する勇気を持ちたい。そこから君の一歩が始まろう。
 積み重ねの人生は、つらく、寂しく、そして長い。加えて激動の世に中庸を持してゆくことはむずかしい。
 一つ一つのコーナーを、静かに、心して、まわろう。

 しっかり。
 君の声が聞こえてくる。

鳥図

 卒業生の担任ではなかったある年のことである。式が終わった後、保健室に行った。
 「先生、見てみんね、こいば」
 高原二三先生が、眼鏡の奥の細い目から大粒の涙をこぼしている。
 「あん、ガキどもが、泣かすっと」
 デパートの包みの中にあるのはストッキングである。
 「特大んとばて言うた時ゃ、やっぱ、はずかしかったっぞ」
 と、言って、
 「ありがとうございました」
 と、その「ガキども」は帰って行ったという。
 ラグビー部のガキ、練習後数人必ず保健室に現れ、男の大事な部分を両掌でつかみあげて、股ぐらに高原先生特製のクスリを塗ってもらっていた。
 「陸軍で使うとったクスリ」
 と、指さされた棚の上に水薬がある。
 「しみっとたいね。そいけん、あいたち、あそこば抱えて、ヒイヒイ言いながらガッタガッタ、ウサギ飛びしよったと……」
 ガキどもに栄光あれ。

──了──

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