信州路 豊永 徳

                  茗荷庵全景
 信州青木村の茗荷庵に招かれた。
 庵は村の奥、山の中腹にある。裏に畑があってその先は深い林、表はなだらかな林の傾斜。その果てに田野が開けている。
 芝生の庭は急な斜面に冬の日を溜め、桜と梅が植えてある。
 梅田倫平先生の「梅は梅、桜は桜」に因んだ同窓のお祝いであるという。
  片隅で椿が梅を感じている
 ふと、林原耒井氏の句が頭を過る。ここの「梅」は「桜」を感じているはずだ。
 庭木はいい加減な配置で剪定の跡を見せず気儘に繁っている。「いい加減な」とは、「造園家の手を煩わせていない」の意である。庵主の思いのままに植えられた庭木は、庭木らしさを全く持たない。従って庵は自然のど真ん中に遠慮しながら居すわっている。庭は二十年後を想定して造られるという。若木がその幹を太くし、枝葉が繁った目覚め時、舞い散る桜を背に、庵の窓から熊がのぞいているかもしれない。
 芝生の落ち葉を踏んで、この庭に佇むと、山の音が聞こえてくる。裏の林に一際高い柿の実が、その音に侘びた朱色を加えて震えていた。
 一歩庵の内に入ると、そこは庵主の美意識と思想が隅々まで行き渡っていた。木目が美しい。がっしりした組み合わせの要所に独自の工夫が隠されている。庵主は一人の棟梁に自ら引いた設計図を渡して全てを託したという。棟梁の渾身の気迫が漂っている。
 客の座から見える茶室の外の景は、額縁の中に納まった山を背景に持つ豊かな自然である。今は冬の入口の侘しさを伝えている。やがて「雪五尺」の世界が描かれ、そして満目躍動する新緑の世界を迎えるのであろう。座してそれぞれの景を想像する贅沢をほしいままにする。

茗荷庵茶室から

 「天子の壷」がある。そうとしか言いようのない壷である。見ていると引き込まれそうな気品がある。
 その壷を背後に、『坂口謹一郎酒学集成』五巻を右手に置いて、
 「今夜はお酒で……」
 と、杯を挙げる。
 話は多岐にわたる。
 「詩は、言葉のお寺なんですね。究極のことばをあの世に送り込んで、懐かしみ、悲しみ、怖れながら詣でるもの、それが詩なんですね」
 奥さんが呆れたように庵主を見つめている。
 「私が話しかけると、黙っといてくれ、俺は今、世界のことを考えてるから………、って言うんですよ。そんな人が、先生の前では、あんなに子供みたいに………」
 と、庵主がはばかりに立った時、こっそりうちあける。
 「この肴、全部主人が作って……。私には手を出させないんです」
 とも。
 「又得タリ浮生半日ノ閑」と、胸の奥でつぶやきながら、私は美酒の導きに心を預けていた。

 夏の終わり、西諌早図書館に依頼していた『長崎古今集覧』が届いているとの報せを受けた日であった。読んでいると、両腕から肩や胸にかけて強烈な痺れと痛みに襲われた。呻いた。腕を揉み、肩と胸を揉む。しばらくして、痛みが引く。ほっとしたところへ、電話。青木村珍竹林茗荷庵の主人からである。
 十一月初旬、三泊四日の信州路の旅の誘いであった。
 出無精の私が返事を渋ると、
 「家にばかり籠もっていてはいけませんよ。それに、僕は奥さんにお詫びをしていませんから。お詫びをさせてください」
 と、笑いながらも、何時になく強引である。
 やむなく「考える」旨返事する。儀礼的なノウの返事のつもりであった。
 庵主は私の授業を一時間も受けていない長崎東高等学校の「教え子」である。赴任した時の三年生で、いわば「おしかけ教え子」だから、最初、何時、何処で、何を話したか、私には全く記憶がない。
 彼が卒業して数年が過ぎた。その間、私は肺切手術をし、見合いをし、正月七日に結婚式を迎える―――といった時を過ごしていた。
 そのころ、私は西山低部水源地から片淵に登った所に小さな家を借りていた。
 挙式を前にした冬休みを迎えたばかりのある夜、片淵の谷に、私を呼ぶ響きわたる声がする。
 出てみると、久しぶりに逢う彼であった。
 玄関に入ると、いきなり彼は言った。
 「先生、何で結婚なんかするんですか」
 三十二歳の男は、胸ぐらをつかまえられたように、「何で」と訊かれて、何と答えたのだろう。国会の証人喚問ではないが「記憶にない」のである。
 その時、彼のお土産は、高橋義孝氏の『死と日本人』であった。
 妻への「お詫び」は、あの夜のことばに起因するという。「お詫び」は高橋氏の著書で充分なのに。
 電話の翌日、九月五日、宅配で書状が届く。電話で申し上げるべき事ではなかったと非礼を詫びての改めて丁寧な招待状であった。断る術のない見事な手順と文言に参ってしまった。

鬼押見晴台よりの景色

 十一月六日、妻とともに出発する。
 無差別テロのせいか、空港での検査が厳しくなっていた。
 飛行機、羽田、モノレール、浜松町、東京新幹線乗場―――、「あさま」の車中に落ち着いて、
 「怖かった」
 と、妻が言って、ぶるっと震えた。
 実際、怖かった。若い人をほとんど見なかったのである。見たのは老人ばかり。近未来に迷い込んだような、背筋の凍る思いであった。とはいえ、怖がっている当方も七十一歳と六十三歳の堂々たる老人なのだけれど。
 待ち合わせ場所の、背の高い軽井沢駅は、二人の靴音が高いところで反響した。
 数時間ぶりに一服する。煙がすっと上る。人心地が戻ってくる。喫煙権を主張したくなる。「ガマンを強いてすみませんと謝りな」と。
 傍で、妻は顔をしかめて手で煙を払っている。
 「遅くなって、………」
 と、庵主が、O脚を慌ただしく交錯させて現れる。彼は私の十歳下の友人だから、もう充分に年寄りの中に入れてよい。
 改めて、挨拶を交わす。
 車には奥さんが待っていた。ここではじめて若い人に出会って、心から安堵する。
 すらりと伸びた脚(平安朝では「髪が長い」とあれば美女の謂。故に、平成の御世では「脚が長い」が美女の形容である―――勿論、独断)を窮屈そうに折ってハンドルをしっかと抱え込んでいる。
 車は、瀟洒にして閑散とした町を抜け、白樺の葉を落とした林道を登る。私有地とかで通行料を必要とする。
 カラマツやシラカバの林に、点々と別荘が見受けられる。人為は自然を凌辱する。どう見ても豪奢な感じではない。むしろ貧相なみじめったらしい感じが強い。都会の生活から逃れる手段なのだろうか。とすれば、贅沢と言うべきか、哀れと言うべきか。
 到着した所は浅間山麓。見晴らし台。
 顎を上げられるだけ上げて浅間山を仰ぐ。頂上は雲に覆われている。
 寒い。車のなかの庵主を引っ張りだして地形の説明を強要する。そうまでしながら、今はすっかり忘れている。人名、地名はすぐに忘れる。私にとっては、人そのもの、土地そのものが問題なのであって、名前はさして重要ではないのである。今いるこの地も、メモには「碓氷峠」と書いている。碓氷峠なら見上げた山は浅間山ではないはずだ。電話で確かめようかと思ったが止した。いま、地名は見事に吹き飛んで、寒風に心臓を掴まれて見た山々の景のみが鮮明に残っている。私はそれで満足なのだ。
 山並みが両翼を形作っている。山は日本の山である。ヨーロッパの山とは趣が異なりどこか優美な線を見せている。見慣れた長崎のチマチマとした山とは異なって、大きな山の連なりは、その優美さのせいか安らぎを覚える。
 皆を車に追い込んで、煙草一本分、寒風に晒されながら、日本の山を煙と一緒に肚に収めて、満ち足りた思いである。
 帰途、中山道に入る。昔のままの道幅という。一間半ぐらいか。「木曽路は全て山の中」から浮かぶ印象を砕き、想像以上に広いのに驚く。追分へ出る。番屋がそれらしく威嚇的なのも面白い。この横に国定忠治を立たせてみたい。いや、忠治は上州の出か。
 晩秋の林を左右に見て車は音もなく下りてゆく。
 空気が澄明で、世の雑事は一かけらも入れなくなっている。
 こんな世界なら詩が生まれて当然だ―――と呟く。庵主、ふんと鼻で笑う。
 エクシブ軽井沢に案内される。会員制のホテルとのこと。瀟洒な造りと対応に田舎者は緊張する。
 「時間でございますから」
 と言われるまで夕食を酒で過ごし、庵主の部屋に居を移す。
 ここからワインの世界。庵主の右手が奥方の前に突き出されると、さっとフランケンのホーデンの瓶が渡される。日本酒からワインへの切替えには、ゲルマンの男を思わせるフランケン・ワインは、抵抗を示さない。
 庵主はいつの間にか身の上話を始めていた。生い立ち、弟のこと、東の生活、親への反逆、学生運動、転学、早稲田、ワイン、病気、結婚、離婚、子供、再婚、ドイツ、………この間、ワイン三本を要した。
 「つまらない人生ですよね」
 と、やや自嘲の気味で言う。平凡な教員である私からすれば、羨むべき数倍の人生を送っている。しかも、今もなお闘志を失なっていない。このことばは、そんな男のことばではない。こちらも相当に入っているから、
 「つまらない人生なんて、どこにもない」
 と、強く言い切っていた。普段の私なら意味不明の微笑を浮かべて肯定も否定もしなかったろう。
 シンとした眼を私に向けて、その眼が潤んで、うなずいた。
 その夜、酔った文字で「垣根が消えた」と、私はノートしていた。

小諸城跡から望む千曲川

 「爽やかな晴れた空気」を体感する。
 ホテルの朝は、のびやかである。
 車は小諸懐古園に着く。
 広大な城跡である。城下町より低地に属するという特色を持つ城である。
 大樹の下、石垣と堀を巡って、黙然と歩む。葉を落とした桜が寒々としている。
 やがて、城の出端の石垣の上に立つ。視界が開けたところ、千曲川が眼下にある。城はこの千曲川の断崖を利して造られたために、城下町より低い位置にあるのだと理解する。今見る千曲川は、水量が少なくて、貧相に見える。
 「この川は暴れ川で、雨や雪の後は手が付けられなくなったそうです」
 ふむ―――と、城の下に生えている薄野を見下ろして納得する。
 流れの中に突き出た薄野を指さしながら、庵主は苦笑まじりで語った。
 「大学の最後の年、失恋しまして、わざわざ下駄とマントを求めて、あそこに半日寝に来ました。寒い時で、風邪ひいて、こじらせ、肺炎になって、死にかけました」

 藤村記念館に向かう。

藤村詩碑

小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ緑なすはこべは萌えず若草も藉くによしなししろがねの衾の岡邊日に溶けて淡雪流る
 暮れ行けば浅間も見えず歌哀し佐久の草笛千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ濁り酒濁れる飲みて草枕しばし慰む

 ―――こんなに行替えをせず書き流したら散文ではないか。
 長い間の私の疑念であった。
 今、千曲川を眼下に見、大樹がそこだけ開けた城端から引き返しながら、私は歩調に合わせて、胸の裡にことばをころがしていた。
 コモロ
 ナル(断定の助動詞、に十ある=なる、所在を示す。―――バーカ今そんなこと考えるヤツがあるか)
 コジョウノ
 ホトリ
 クモ
 シロク
 ―――あ、やっぱり詩だ。詩以外の何物でもない。
 「僕は今藤村と同じ歩調で歩いているような気がする」
 と、私は言った。そして、今までの不遜な考えを庵主の前に懺悔した。
 「此の城に来て良かった。ある種の詩は、その作られた所に立ってみて、はじめて心に響くものなんだ。この詩は教室で読むものじゃないね。ここに来て、ひとりひとりの歩調で声に出して読ませたら、それでいいんだ」
 自分の詩の授業の苦痛と下手さ加滅の弁明にすぎないかも知れないけれど、
 ニゴリ ザケ
 ニゴレル
 ノミテ
 クサマクラ
 シバシ
 ナグサム
 と、眼を潤ませて、歩を刻んでいた。
 庵主は無言で頷いて、私の歩調に合わせて歩いていた。
 菊花展が催されていた。それなりに見事な花が並んでいた。しかし、私のわがままな心情では、ひどく場違いな気がして、肚の底でむくれていた。

上田城

 上田城はからっとした豪快な雰囲気であった。
 ―――この城に藤村は似合わない。
 楓の紅葉が突き抜けた天に震え、小学生の群れが元気な声を上げている。

 「長野県上田盆地のほぼ中央、尼ケ淵の上に上田城がある。今は四百メートルほど遠くを流れる千曲川も築城当時、城郭の下を洗っていた。幸村の妻が三人のまだ小さい女の子を気づかい、この城に寵ったのは慶長五年(一六00)の関ケ原合戦の時であった。当時千曲川に流れ込む矢出沢川をつけかえて作った深い箱掘と、野球場や陸上競技場がすっぽり入る百間堀や池に囲まれた郭内に、武家屋敷も町屋もあった。場内は一・五キロ四方ほどであった(中略)。
 石田三成を討つために秀忠は東山道を西上した。秀忠が上田城を攻めたのは一五年前、徳川軍がここを襲い、真田の奇策に大敗した仇を討ちたかったからだ。ちょうど稲刈り時で、秀忠は場外の稲刈りを兵に命じ、これを妨害する真田兵との衝突に始まった戦いで、城壁の下に殺到した徳川軍は敗れ、またも敗退した。
 秀忠は真田攻略に気をとられ、ついに関ケ原合戦に遅参、父・家康を激怒させた。」(楠戸義昭『城と女』――上田城と真田幸村の妻――より)

 譜代の臣を従えた秀忠の大軍が、六日間この城を目前にして抜けなかった―――はずはない。徳川の懸念は、会津上杉景勝の動静であったろう。苦戦、敗退は擬態ではなかったか。秀忠の許には、会津に放たれた細作がひっきりなしに訪れていたのではなかったか。景勝動かずと確認して、秀忠は関ケ原へと急いだ。家康の激怒は親子で計算された演技ではなかったか。
 楓の紅葉を仰ぎながら、私は空想を楽しんでいた。
 空想のなかに、子供のころに読んだ真田十勇士の活躍が浮かんだ。猿飛佐助、三好清海入道、霧隠才蔵、筧十蔵………懐かしい顔が浮かんでは消えた。

 上田城を後にして、青木村のホテルに案内された。
 温泉に四肢を伸ばした後、旅館の並んだ坂道を散策した。
 藤村が執筆に使ったという宿は、古めかしいたたずまいを残していた。人の気配のない門前に立っと、
 「そこは端近、これへ」
 と、藤村から声を掛けられて、
 「いや、ご遠慮つかまつる」
 と、応じ、音立てて流れる渓流を愛でながら去った。
 夕べの気が漂うなかを、茗荷庵へ誘われた。

 翌朝、再び茗荷庵へ案内され、さらに庵主のコレクションであるドイツ・ワインの貯蔵庫に案内された。細い山道を車は揺れながら登った。搬送の苦労が思われた。
 庵主の事務所を兼ねた貯蔵庫は林のなかにひっそりと待っていた。
 貯蔵庫には数万本のワインが眠っていた。温度調節が難しいという。そう言いながら、庵主の眼は幼子を慈しむ眼になっていた。こんな眼はたぶんワイン以外には向けられないであろう。
 仕入れ先のドイツの貴族と話をする時、庵主はけっしてドイツ語を使わないという。
 「変な日本語を使う外国人を信用できないでしょう。下手なドイツ語を使うより、終始日本語で話します。お互い人間ですから、通じます。彼等は私を彼等と同等に遇してくれます。だからいいワインが手に入ります」
 サムライなのだ。この庵主は。
 日本のサムライと独逸のサムライとの信頼関係が納得される。
 庵からこの貯蔵庫まで毎日山道を通うという。村人は、近年、熊がしばしば山を下りてくる、と話し、山道通いを止めよと忠告してくれる、と庵主は笑う。

国宝大法寺・三重の塔  「今日はとっておきのものをお見せします」
 青木村の坂道を広がる大地に下る車のなかで庵主は言った。
 平坦な道をしばらく走って左折した車は再び坂を登りはじめた。駐車場から丘へ歩く。
 渡されたパンフレットに「国宝 大法寺三重塔 案内」とある。
 高く繁った大樹に囲まれて三重塔が見上げられた。近づくにつれ、塔は初重のみ威圧するように迫ってきた。技巧的な装飾を去った造りがしっかりと大地に足を付けて立っていた。
 庵主に従って塔を巡る。後ろの丘に登る細い道を行く。塔は平野を見下ろしている。その屋根の剛毅且つ繊細な線の美しさに息を呑む。一寸の長短を許さない完璧な品格がそこにあった。
 しんと心が鎮まり、ほんのりと躰が温まる。
 帰途、胸におさめた塔を懐かしみ放すまいとして物も言わず歩を運んだ。
 「社長さん、新しい野菜だよ。百円だよ」
 塔への入り口に老爺がいて声を掛けてきた。
 はっとして歩を止め、塔を見返った。私は頭を振った。この塔ではない。急いで今まで胸に仕舞い込んだ塔の姿を守ろうと塔から眼を放した。その視線の先に庵主の片方の肩を持ち上げ、物売りの声を拒絶した姿があった。

 信州の旅は最後に蕎麦を御馳走になって終わった。
 今夜は東京に出て庵主の主催する「ワイン党の会」に招待されている。

 「ワイン党の会」は、庵主の選んだ党員の集いであるらしい。
 「今夜は出席者が多くて、四十人ぐらいです。ワインのワの字も口にしないで、皆がそれぞれの話題に興じるだけの気楽な会です」
 と、庵主は言う。
 庵主は私たちの話し相手に、東高の後輩で、私の教え子である十七回生のⅠさんとT君 を招待しているという。心遣いに感謝する。  会場に着くと、すでにⅠさんは来ていた。妻はやっとほっとしておしゃべりに余念がない。
 庵主の奥方は十回生のお相手が担当とか。
 「長崎弁って、素敵ですね。特に男の方は。これぞ男って感じで。東京弁の男が軽薄にみえてきます。私、今夜は長崎弁です」
 と、溌剌としてのたまう。
 会場は満席。少し狭い感じである。会員はいずれも庵主の目矩によって選ばれた一騎当千の紳士淑女と見た。屈託なく、談論風発、和気藹々、その場にいるだけで楽しい。
 開始直前にT君が駆けつけた。今まで仕事でやっと間に合ったという。
 特別な挨拶もなく、さりげなく会が始まる。
 食べるのが惜しいような、可愛くも洒落たフランス料理。
 時を置いて注がれる十一種類の「独逸ワイン」。
 特殊なワインのみ庵主が短く紹介する。
 妻は飲めない。そっと合図するので、さりげなく妻のグラスを空のグラスと交換する。私は二人分のワインを楽しむ。違法なのは承知の上。発見したウエーター(ソムリエが正しいか?辞書に当たるもウエーターはあってソムリエはない)の非難と軽蔑の眼差をはじき返し、肚の底で、
 ―――本来、「酒」はすべて野人の娯しみとしてあるものなのだ。肩の凝る洒は飲めたものではあるまい。
 と、紳士はほざいている。
 Ⅰさん、私の肚まで読んだのか、
 「先生、三倍は娯しんでますね」
 と、笑う。いい笑いである。
 T君は、既に頬を朱に染めて、「ワイン、ワイン」と、庵主が禁句と言った賛嘆のことばを連発する。これも我が党員である。
 最後の洒は一九九二年のヴァルハウゼン城(ザルム公爵家)。逸品である。
 得難い経験の一夜を過ごして、庵主夫妻と別れる。

 信州路、ことに青木村茗荷庵の一夕は、生きてある今の有り難さをしみじみと思わずにはおれない時であった。お互いに口にこそしなかったけれど、死に急いだY君のことが頭の隅にあった。庵主の招待の真意は「生きてある今」の確認にあったのであろう。
    生きることは辛いことが多いけど 生きなけりゃ
    昨年は つくづくそう思い続けていました
    生きてこそ!
 二〇〇二年、庵主の賀状の一節である。

              ――了――

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