さくらの絵

 「士」とは、もともと男根を形象化した文字だという。
 近世になって「武士」としての徳目が付加されて「さむらい」が生じた。
 いま、私は、内に大いなる「勇気・信念・愛」を堅持しつつ、表にそれを顕示しようとはしない人物の謂で「さむらい」を使っている。

 20世紀の後半を全力で駆け抜けて逝った「さむらい」がいる。
 彼の名は、山口光太郎。長崎東高校第17回生である。
 教え子でありながら、私は彼の一部を知るのみである。
 限りなく母校を愛した男。
 「ことば」をだいじにした男。

 彼は、多忙な会社経営の傍ら、在京同窓会の幹事長や、機関誌『東風』の編集に携わっていた。加えて平成9年6月からインターネット・ホームページを企画開設している。

 「今年も学校関係で少々忙しかったのですが、来年も走り回りそうです。来年の総会を例年より一ケ月はやく開催するので(5月23日)、『東風』の編集を急がなければなりません。また、総会当日に在京同窓会の記念誌を発行しようという話になり、この準備も年明けから始まります。(中略)前回の先生の「はぐれ猿と芭蕉の視線」は、なんど読み返しても「東」を誇りに思う心を奮い立たせてくれます。(このような心が同窓会のお手 伝いをしている原点かもしれません)」―平成9年12月―

 「インターネットという通信手段を媒介に、同窓生はもとより、西や南、北の卒業生と世代を超えた新しい交流を持ちはじめました。(中略)この新しい世界がどこまで開けるのか、その先に何があるのかを見極めてやろうと思っています。」―平成9年6月―

 退職後、私はかなり長い間、表に出せない鬱屈を胸にしていた。それをエッセイにし、『うたたね』(阿仏尼の初恋失恋記録)や『建礼門院右京大夫集』を読みおえたころ、やっと「生えている」から「生きている」毎日へ転換できたのを自覚していた。
 そして、長い間あたためてきたものを書きはじめていた。そこへ、ホームページの開設と、そこへの原稿依頼がきた。しかし、私にはインターネットなるものの正体が分からなかった。(今もなおよくは知らない)。
 彼は丁寧な解説の手紙と、連載形式にしてほしいとの要望を寄せた。
 最も好きなことば『花は野の花』を全体の表題に選んで、小説の筆が進まなくなると、「東」時代を思い出しては拙文を紡ぎ出していった。
 横書きの文章に馴れなくて、最初は抵抗感があった。しかし、二ヵ月か三ヵ月に一度のエッセイは、私の生活にある種のハリを与えた。
 次の便りは、『お嬢さま』と題して、斎藤 進先生のことを書いた後のものである。

 「斎藤先生のお話、感慨深く拝読いたしました。斎藤先生は1年のときの校長でした。 入学してまもなく小冊子が配られました。たぶん図書館便りというような性格だったと思います。その中に斎藤先生の随想がありました。斎藤先生が学生のころ「資治通鑑」をお読みになっていると、お母さまが「しじつがんね、もう目が弱くなって読めなくなった」と話されたエピソードが紹介されていました。また、洗濯物を干しながら、「あの娘は気だてのよいこだ、お嫁にいってもきっと可愛がってもらえるだろう」という漢詩を口ずさまれていたという話もあったと記憶しています。この随想を読みながら、斎藤先生の学問への道はお母さまの影響を受けられてのことだと思いました。と同時に、高校の知性というものを感じました。中学までは教えられたことを学ぶという姿勢でよかったのが、高校生は自ら知性を得ることが求められているのだと思ったものです。(このようなご教示をいただきながら、実践できなかった私のことは不問に願います)
 知性豊かな先生方と、自由で、闊達な友人たちと過ごせた東高時代に感謝しています」―平成9年7月―

長崎港

 彼の「ことば」に対する鋭い感受性は、既に高校1年生ころから芽生えていたことを知った。「ことば」をだいじにする姿勢は、次のような便りにも端的に示されていた。

 「先生にお教えいただいた生徒が、またまた国語で恥をかいてしまいました。『東風』編集後記に「強いらない」と書いたのです。その文章を見てある先輩が、「強いない」ではないかと指摘されました。
 「強いらない、強いります、強いる、強いるとき、強いれば、強いろ――でいいはずなんだけどな?」と思いつつも、「国語で分からないときは文部省」ということで国語課に問い合わせたところ(この課は役所としては珍しく親切なところです)、「上一段活用 ですから、『強いない』ですね、はい」とのこと。ガーンです。
 さっそく広辞苑で調べました。
 強いない・強います・強いる・強いれば・強いよ(ろ)
 とありました。(以下略)」―平成10年12月―

 次は、在京同窓会に招かれたときの、ある人の魅力に触れた感想の一部に対しての彼の反応である。

 「『劣等感が人間にかげを与え、立体感を与えている。どんなに隠そうとしても、ひとのかげと立体感はどこかに現れて、その人の魅力の根源に、良くも悪くもなっている。劣等感のない人ほど始末におえないものはない。そして、じっと隠してきたそれが、何かの折に噴出するとき、人は最もその人らしくなる。魅力的な人は最も魅力的に、醜怪な人は最も醜怪に』―――たいへん素敵なお手紙を頂戴しまして、先生ほんとにありがとうございます。」―平成11年5月―

 彼本来の仕事についての便りのことばは、次の数行だけである。

 「世の中が少々暗くなっている印象です。私の会社も広告デザインを生業としておりますが、ここ数年の環境の変化に戸惑うばかりです。暗い顔をしていても好転するわけではないので、いろいろと工夫はしているのですが、妙案はなかなかありません。来年こそ初心に返ってひと頑張りしたいと思っています。」―平成9年12月―

 彼の最後の便りの中に、次のようなことばがあって、彼の死後、頭から離れない。

 「最近つくづくと思います。優しい心に出会えたら、自分の心も優しくなります。人に優しく、いつもにこにこと笑っていられたらと。」―平成11年12月―

 

 彼は、なぜ、本来の自分の仕事の他に、同窓会行事企画や『東風』編集やインターネット・ホームページにまで全力を尽くしたのであろうか。それは単に「生の充足」を求めてのことではなかったのかもしれない。「生の充足」を求めてのことなら、「燃え尽きる」ことはなかったろう。彼がホームページに企画開設した『原爆体験の証言』も緒についたばかりの時であるから―。
 ある同期生は言う。
 「彼はクリエーターとして生きることが望みだった。なのに、会社の長という意識が彼の自己表現を抑制していたのではないか。彼の同窓会行事企画や『東風』編集やインターネットなどの、いわば裏方に徹した仕事は、彼の才能を存分に発揮し、その成果を楽しめる唯一の場であったのだろうか」
 私はそれを聞きながら、あるアート・ディレクターのことばを思い出していた。

桜1

 「せっかくのデザインがクライアントによって台無しになることって多いんだよ。でも僕の仕事はクライアントあっての仕事だから、どうしても聞いてもらえなかったら涙を呑んでハイハイと従うことになるのさ。ストレスたまらない方がどうかしてるよ」

 一昨年、在京同窓会に招かれた折、ホテルの部屋まで送って来て点検した後、
 「先生、またお会いしましょう。すてきな文章をお待ちしています」
 と、髭面の中にすがやかな笑顔を残して去った彼の姿が目に浮かんでくる。

 こよなく「東」を愛した「さむらい」の死に急ぎを悼みながら、私は今日も筆を執っている。それが私にできる彼に対する唯一の供養だと思うからである。

合掌

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