毎年のことながら、賀状に添えることばに迷う。
今年は、長崎の「凧(はた)あげ」歌、
稲佐ん山から 風貰おう
い-んま 風戻そう
を選んだ。
岩波文庫『わらべうた』から採った。「稲佐の山」は「愛宕の山」とも歌う、と注記にある。
良風満凧――そんな年でありたいとの念いをこめた。
ところが、賀状を投函した後が、おもしろくなかった。私は十二指腸潰瘍を再発して酒を控えねばならぬし、長男はほとんど徹夜に近い仕事の連続で疲れきっている様子だし、長女は体調をこわすし、家内は指に怪我して元旦早々当番医に駆けつけるというていたらく。
かくして、介護の初歩訓練(炊事・洗濯の見習い)で私の世紀末の年が始まった。
生活のリズムが狂いはじめ、暗い気分になりそうなのをこらえていた。
――風が止んだら凧(はた)は落ちる。良い風が長く続く道理はない。このコーナーは、耐えて静かにまわろう。
そう思っているところへ、三日夜、一本の電話があった。恩師野地先生のいつもの静かに人を包みこむようなお声であった。
野地先生は、広島大学を退官後鳴門教育大学長をお勤めになり、昨年退官なさった。私の国語教師としての四十年を支えてくださった方である。
「君の賀状に述べてあった『念願の平戸に材を得た小説(千二百枚)を脱稿し、ささやかな充足感のなかにいます』という一文が見過ごせなくってね………。発表、出版の方途や方法など、心当たりがあるから、ぼくにまかせななさい。ぼくも、かつては文学青年、文筆で身を立てようと思っていたこともあるので、放っておけないんですよ。」
先生はご自分の文学に目覚めたころのお話をなさった。
なかでも、心に残ったお話は、先生の修身(いまの道徳、公民)の答案一枚を見て、「君は文筆をもって世に出なさい」と先生に勧められたという中学校長のお話であった。東大印哲出身の方であったという。答案一枚でその人の優れた素質を見抜く眼力に驚嘆しながら、私は正座して聞き入っていた。
――思いもかけない方から良い風が吹いてきた。すごいお年玉をいただいた。
胸迫って私はろくにお礼も言えなかった。
おことばにあまえます――とは申し上げたものの、私の作品が先生の期待していらっしゃる「文芸」に値するかといえば、それは全く自信がない。
それでも、さっそくワープロに向かって三度日の推敲を始めた。すると、気持ちが落ち着き、生活に張りが戻っていた。
推敲すると千二百枚は千枚余に減っていた。
郵便局に向かいながら、
――まるで、卒論を出す時みたいな気分だな。
と、思った。とたん、真下三郎先生を思い出した。真下先生は女性語の研究で有名な方である。講義はおもしろく、余談がほとんどであった。一セメスターにノート三ページぐらい。学問は自分でテーマを見つけてやるものだ、というお考えのようであった。
さて、その真下先生の卒業論文の評語は、そのほとんどが「労作」の二文字であったという。だから提出した学生は皆喜んでいたらしい。しかし、先生のおっしゃる「労作」とは、「労のみ多く益なき作」の意であったとか。
野地先生のおことばにあまえて、作品をお送りしてはみたものの、評価は「労作」にまちがいなかろうと観念している。
「文字にしたものは、やはり公表して、良くも悪くも多くの人の評価を受けるものですよ。君は遠慮して手元に置いているみたいだから、それをみんな出してしまいなさい。発表や出版のことはぼくにまかせて、君は大作家のつもりで、どんどん長編、中編、短編、なんでもただ書くことに専念しなさい。」
おことばをありがたく思い返しながら、それでも、良い風のやがて止む日のことばかりを思う。しかし、落ちた凧は、また拾い上げ、作りなおして、風のない日は全力で走って揚げてみよう。それが私の唯一の「死に支度」(生の充足法)なのだから。
だから、賀状には『閑吟集』に言う、
何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来稀なり
(おやまあほんに、私もいつの間にか七十歳、古稀とやら。
どうってこともなく過ごしてきたんだが。)
何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ
(何になろう、まじめくさってみたところで。所詮人生は夢よ。
ただ面白、おかしく、遊び暮らせ。)
この二句(岩波文庫による)を選んだ方が良かったのかもしれない。
ともあれ、今年も「私の遊び」を大事にしてゆきたいと思う。
そんなわけで、唐八景の歓迎遠足を想い起こしながら、皆さまの凧(はた)に良い風が満ちますようにと念じ上げつつ、また駄文を寄せさせていただきたいと思っている。