峠のトンネルを抜けると、そこには新緑の渓谷が走り下っていた。
(『雪国』がなかったら、この書き出しで見事な一編が生まれただろうに。)
ああ長崎を後にした、という思いにとらわれて、私はまぶしい緑の輝きを目で追った。
バスは桜の並木を右に見て蛇行しながらゆっくりと下りてゆく。
彼も眼鏡の奥の目を細め、額に皺を刻み、渓谷から目を離さない。
やがて紺碧の海が視界を広げる。
バスは右折して下り、水族館前で止まる。(当時水族館があったかなかったか、記憶は定かではない。)私たち二人を残してバスが走り去る。目の前に数軒の家が並んでいた。
彼は私を眼で誘って、渓谷の底の細い道に入った。しかし、すぐに足を止め、じいっと緑の傾斜を見上げた。
「お、おおち、どう思う?」
彼の得た情報では、ここに住宅団地ができるということである。その下見に行こうと誘われたのであった。
「ちょっと遠いかなあ。」
と私はつぶやいた。(いつまでも東高におられると思っているのだからおめでたい。)
「ううむ。」
と、彼はうなった。
「あ、あそこから、と、トラックの落ちて来たら……。」
今下りてきた道は、はるかな頭上に、桜の葉を揺るがせている。
彼は深刻な表情をくずさない。
「余所にするか。」
と私はつぶやいた。
すると、彼は、とたんにホッとした表情を浮かべた。
「そいに、ここは酒屋もなか!」
彼のこの決定的理由で、私たちはここに住宅を求めることを断念した。
昭和32年11月8・9日、西部地区国語教育研究協議会が、長崎市で行われた。小・
中・高校の国語教師が各地から集まった。
会場が東高(中・高)であったためか、高校の研究授業は東高がうけもった。
当時の実施要項を見ると、次の三人である。
高校1年 本田一夫 『更級日記』(あくがれ)
高校2年 豊永 徳 『枕冊子』 (生ひさきなくまめやかに)
高校3年 大脇勘治 『国際の民主主義』(横田喜三郎)
ベテランの中に挟まって、当時26歳の、しかも転任して半年を経たばかりの私が入っていた。(他にベテランもたくさんいらっしゃるのに)と辞退したかったけれど、許されなかった。
今この実施要項を見て驚くことがある。なんと、1年で『更級日記』を読んでいたのである。
研究授業で扱われるのは、源氏物語五十余巻をはじめて手にした作者が、「きさきの位も何にかはせむ」と、
その喜びを書き記した有名なところである。東高がどんなレベルの学校であったかを示す証拠にもなろう。
私は「もののやくにも、たち候はず」といった存在であった。
「豊永君、ちょっと解いてみて。」
本田先生から模擬試験の近代文学史問題の原稿を渡される。見ると昨夜問題にしてこれは無理だと没にした文章であった。内容が専門的に過ぎるのである。だから、3分もかからず解いて、
「これでいいですか。」
とお返しすると、
「あ、やさしすぎるか。」
本田先生は無造作にまるめて塵籠に放り込まれた。かくして、ほとんど0点の、そして採点には実に楽な難問ができあがった。
私は、文学史の問題は大の苦手で、大嫌いである。「文学史の教科書を見よ、と書いと
きゃいいさ」と生徒に暴言を吐いて、本田先生からきつく叱られていたのである。
話を本筋に戻そう。
研究授業を明日に控えた夜、彼から電話があった。
ここでまた脱線したくなった。
電話は学校にかかってきたのである。
図書館ができたあの土地に、大邸宅があった。「橘寮」である。旧女学校の作法室にで
も使われていたのだろうか、広い玄関、縁、10畳ほどの部屋2、それに、たしか湯殿まであった。しかし、老朽化してお化けでも出そうな家であった。夜間不審人物の出入もあったらしく、火の用心のためであろう、入らないかと言われ、躊躇なく入った。相棒は新卒で赴任していた宮本さん。二人で学校の宿直を交代で受け持ったりした。なにしろ給料が安かった(今調べたら、14800円であった)ので大助かりであった。ただし、宮本さん、ついそこまでと、下駄履きで職員室に入ろうとして、用務員のkさんに、生徒とまちがえられ、箒を持って追っかけられるという一幕もあった。
(誰だろう、いまごろ)と宿直室に走り受話器をとる。
「お、おいさ。ちょっと出てこんね。」
「ばってん、明日、研究授業やけん。」
「そいけん、言いよっと。」
飲んでいる場所を聞いて出かけた。思案橋付近まで、歩く。途中少々不安でもあった。
しかし、もう本文も諳んじているし、授業の構想も出来ているし、最初に読んでもらう人にもさりげなく頼んでいるし、と強いて思い決めて急いだ。
(研究授業では、最初の生徒の読みが肝心である。上手すぎたら芝居と思われるし、下手であれば、後の授業はもう見なくて想像できる。私はその日たまたま逢った寄宿舎にいた人に、「明日読んでもらうかもしれないよ」と声をかけていた。彼女は、大さな、きれいな眼で見返してうなずいた。部活でもしているのか、小麦色の肌、怜悧そうな顔だちのきりりとした少女であった。彼女の読み方で明日は決まる、これは賭だな、と思った。そして、美少女揃いのクラスだから、見学者の点数は甘くなる、とも思った。)
一軒で終わるかと思ったら、もう一軒と言う。
やっと帰ることになったと思って、ほっとした、そのとたん、
「ゆこうか。」
と、彼が顎をしゃくる。午前一時、人通りの絶えた坂道は、丸山に通じていた。
「まさか……。」
「ま、まさかじゃなかさ。」
絶句していると、
「お、おおち、洒は知って、こいは知らんで、そ、そして、文学ば語るわけ。」
と、大まじめで迫る。
「うん。そういうわけ。」
ふふっ、と彼は鼻の奥で笑った。
「そんならお帰り。」
「うん。気ばつけて。」
彼は、鞄をゆらりゆらりと振って、坂道を上って行った。
結婚と就職-その平安朝版-
と、黒板の左に横書きして、授業は始まった。
彼女の読みがすばらしかった。文節を変なところできって、「あ」と声を上げ、きれいに読みなおした。故意にしたのではないのだが、実に効果的で、見る人はこのクラスのレベルの並でないことを充分に知らされたにちがいなかった。
文節間の関係の複雑な所を一か所、これも横書きで板書して、洒のせいでのかすれ声ながら、
授業はまずは無難に進んだ。残り一分、もう話すことがなくなって、どうしようと思ったとき、すっと手が挙がって、
文法上の重要な質問があって、最後がびしっと決まった。(古文の横書きの板書は、後の慰労会で、
他県のお爺様たちが私を囲んで侃々諤々、私の方が驚いた。)
お茶がおいしかった。
「おおち、授業は上手かとね。」
と、彼が私の肩を叩いた。さすがに心配で覗いていたらしい。
「今日は彼女たちに助けてもらったけん。ばってん声のかすれて――。」
「かすれ声の方が味のあってよかった。ばってん、今日のところは試験に出さんごとせんば、恨まるっよ。」
「え?」
「女は怖か。ろくに分かりもせんとに、目ばきらきらさせて、うなずいたり、ほほえんだり、みごとなもん。」
彼は、うふっ、と例の笑いを笑って、言った。
「お、おおちは、まだその辺の分からんじゃろ。そいけん、誘うたとに。」
昭和会という会があった。昭和生まれの東高教員のダベリ会。会員は、当時20人に満たなかったろう。ある日、その会でパンツ論議が始まった。私は離れて煙草をふかしていた。彼が私の傍に来た。
「恐ろしかね、本読むやつと、読まんやつ、一目で分かる。」
と、怖いことを言って、
「おおちは。」
「フンドシ。」
「いつから。」
「中学に入ったときから。」
「オイも。あいがいちばん。まさかのとき懐紙(当時ティッシュなんて無粋な言葉はなかった)の無うてもすむもんな。」
と、鼻に皺を寄せて、うひっと笑った。
「あっち。あっち。」
木下好司さんが、右手で彼の方を指した。生徒が頭をかいて彼の方に移動した。
「生徒は頭しか見んとね。」
やさしい顔で苦笑していた木下さんも、去る八月彼のいる世界へ旅立った。
時々、彼は枕元に現れて言う。
「お、おおち、まあだそっちに未練のあっとね。そろそろこっちに来んね。」
「そっちに酒屋はあるね。」
彼は鼻に皺を寄せて笑いながら消える。
私としては、そこのところの確認をとらない以上、仰せに従うわけにはゆかぬ。
彼は誤解されやすい人であった。誤解に基づく言辞にもいっさい弁明などしなかった。ただ唇の端をきゅっと曲げて、憐れむように相手を見るだけであった。
彼はあの若さで地理学事典に執筆したほどの好学の士であった。そして、また、読書人でもあった。高校よりもむしろ大学にいた方が、その才華を輝かせたであろうと思う。
彼の名は、大和一男。
肉の厚い指でおもむろに猪口を口に運ぶ姿が懐かしい。
―了―