長崎東高保健室 その二

治療

 弁当箱を開ける。蓋にご飯粒がぽちぽちとついている。箸を器用に使いながら、その飯粒をいとおしむように口に運ぶ。それからホッと吐息を漏らして、やおら箸を弁当の中身に運ぶ――という、奇妙な習性の人々がいる。
 昭和一桁生まれの悲しい習性である。

 そのころ、私はよく下痢をした。
 たとえば、昼食のチャンポンの蛸の足を噛んで「………?」と思ったら、もういけないのである。後を食べなければいいのに、それができない。食べ盛りを戦争と敗戦後の食料難時代に生きた者の「悲しい習性」が、それを許さない。そして、一時問後にトイレに駆け込むことになる。
 週に二三回は保健室を訪れる平戸から来たひょろ長い男(当時身長174・体重52前 後)の病気が「神経性下痢」と高原先生はすぐに見破ったらしい。
 「この薬、私の特製やっけん、良う効くよ」
 と、お家の形に折り畳んだ薬袋(今ではめったにお目にかかれない、あれこそが「薬」だったのに)を渡される。その薬を飲めば一発で良くなる。これが「神経性下痢」のいいところ。実際には何だったのか――。でも、それは特効薬であった。
 「私がおらんときは、ここに置いとくけん」
 先生は自分の鍵のかからない机の引出しを開けて、並んだ紙の家を私に確認させるのであった。

 結婚したら私のこの病気は嘘のようになくなった。
 「ハルちゃんが付いとっけん、こいはもう要らんね」
 高原先生は、笑いながら紙のお家を屑籠に捨てた。

講義

 「xさん、何か病気のあると」
 東高で初めて担任したクラスであった。xさんは、毎月きまった時期に保健室で二三日を過ごす、と気付いて、放課後に保健室を訪ねた。
 「お客さん」
 「………?」
 「ええっ。………先生、知らんと」
 「うん」
 「そいでまあ、よう担任の勤まるね。そこにお座り」
 かくして、女性の生理について、初めて講義を受けた。
 「一人一人違うとね」
 「そう。平気な人もおれば、ⅹさんのように痛む人もいる。中には万引せんばおさまらん人もいる」
 「デリケートなんだ」
 「そう。そいけん、先生、女の子ば叱るときにゃ気ばつけんばよ。叱るより静かに話しかけんば。」
 「分かった。ありがとう。ばってん、神様も不公平かね」
 「え? なしてね」
 「女だけ丁寧につくられとる………て、そう思うた」
 「そら、そうたい。子供は女しか産めんけんね」
 と、高原先生は笑って、後で流行ったことばを口にした。
 「ばってんね、女もいろいろ、男もいろいろたい」


長崎の港の絵

病院

 人には避けることのできない運命的な年があるらしい。良くも、悪くも――。
 その年の夏、修学旅行で東京に行った――とは覚えている。しかし、どこをどう見たのかは記憶から欠落している。たぶんその後の「運命的」な出来事のためであろう。
 極度の疲労を帰郷して癒し、夏休み後半の補習授業が始まるとすぐ、「チチキトク」の電報を受け取った。
 父の葬儀を終えると病気が私を待っていた。
 九月、レントゲン検診が行われた。たしか、長崎大学医学部放射線科の手になるものであったと思う。
 高原先生がなぜこの検診を企画なさったかは知らない。
 「精密検査を要する」とのことで、長与先生とともに断層撮影に行った。結果は長与先生は異常なし、私は「左肺鎖骨下に一センチ四方の空洞あり。即刻入院加療すべし」であった。まさに「泣き面に蜂」である。
 一学期の検診では異状なしであったのが、なぜ――という質問に、医師は「たぶん鎖骨の下なので隠れていたのだろう、カメラの角度だ」と明確に答えた。
 呆然としている私をよそに、高原先生の行動は早かった。
 「最も早く治す方法は肺切。辻外科はその最先端を行く。入院期間は約六ヵ月」との情報を得、斎藤校長に報告。斎藤校長は休職扱いを避け「長期欠勤」の形にして下さった。公的には認められない処置である。退職した後、当時教職員課長をしていらっしゃった大町校長に話すと「えっ。君たちそんなインチキやってたんか」とびっくりなさって、「うーむ。斎藤先生もやるもんだな」と私の顔を穴のあくほど見つめられた。
 入院の挨拶をして大学病院へ向かう車の外に、お諏訪さんのシャギリの音があった。
 退院後十数年問、シャギリの音は、私の胸に痛みをよみがえらせた。
 当時の生徒諸君、ことに十三回生の方々には、途中で担任をおりたから、今でも頭が上がらない。
 高原先生は全校の消毒をしたり、入院手続きをしたり、走り回ってくださった。

 手術まで約ニヵ月はいろいろな検査があると知って、私は高原先生に頼んで『源氏物語』と『狂言集』を下宿から持って来てもらった。ありあまる時間を使って『源氏』を読破しようと思ったのである。しかし、私の神経はそれほど強靭ではなかった。肺切手術は100パーセント成功するとは限らない。顔見知りになった人が、外科に下って三日目に亡 くなった、などの事例を見聞きすると、『源氏』どころではなくなる。結局『源氏』にはお帰りいただいて、『狂言集』を枕元に置いて拾い読みしていた。
 教授回診のときである。
「狂言のことばは、他の古典のことばと少し違いますね」
 と、温厚な白髪の放射線科教授は私に語りかけた。
 「はい。たぶん当時の話しことばに最も近いことばでしょうから」
 「ああ、なるほど。すると当時は『コンニッタ』なんて言ってたんですな」
 と、周囲の医師たちを見回した。狐につままれたような顔を見回して、
 「専門バカはいい医者とは言えないよ」
 と、笑い、私を見てうなずいた。
 「いいえ、私は専門バカにもなれないでいます」
 と、答えると、
 「こういう患者さんがいるから、怖い」
 と、にこりとして、私に手術の意志の確認をした。
 終わって主治医が明日の検査の説明をしていた。言葉づかいが変わったのに内心苦笑しているところへ、病室の外で大きな声がした。
 「おお、m君、元気そうね」
 「はい。先生もお変わりなく」
 「なんで、ここに?」
 「母校の先生が入院して肺切なさるて聞いたもんで。主治医ば知っとっけん」
 「そうね、ありがとう」
 声とともに入ってきたのは、高原先生とmと呼ばれた医師であった。
 「よろしくお願いしますよ」
 高原先生のことばに、主治医は直立不動、丁寧に頭を下げて去った。
 「あいが、先生ば先輩のお医者さんて思うて、完全に貫禄負けやね」
 と、mさんが笑った。
 その後、mさんは顔を見せなかった。しかし、私は東高で教鞭を執る幸せを噛みしめていた。

空中遊泳

 12月15日の手術の前日まで、私は97冊の小説を読んでいた。猶興館での教え子kさんが、看護学校にいて、実習の行き帰りに病室を訪れては、何かと世話をやいてもらった。彼女に貸本屋の小説を手当たり次第借りてもらったのである。
 また、この期間ほど綿密な日記を書いたことはない。
 見舞客の筆頭は高原先生、次いで宮本義久さん、そして、保健部のsさん、クラスの生徒たち。
 母には入院を隠していた。父の七七忌法要にも「多忙」を理由にした。田舎で父を失い一人暮らしをしている母に心配をかけたくなかったし、「肺結核」は当時は死病として忌み嫌われていたからである。駆け出しの医師の弟にだけ事実を伝えていた。

 高原先生は、時々娘さんを伴って来た。

アゲランダムの花

 「京子ちゃんを連れて来るのはお止しよ。ここは結核病棟だよ」
 「大丈夫。皆さん菌は出ていないよ。菌が出ていたら看護婦は形だけでもマスクするもんよ」
 高原先生が見えると、とたんに病室が明るくなる。
 「ねえ、ねえ、先生、隣の部屋はがらんてしとるよ」
 「ああ、aさんの愛人が来て、みんな気ば利かせとると」
 「ええっ」
 高原先生は隣の8人部屋を偵察してきて、
 「へえー、あのお爺ちゃん、やるねえ」

 ある日の日記。
 ――宮本君が来る。彼の話ではfがkさんに、それこそ際限もなく叩かれていたとのこと。fには悪気はないのに、そして、彼自身も意識していないのに、ふてくされたように見えることがある。それがkさんの神経を逆撫でしたのだろう。私の突然の入院で授業時数の増えた国語の先生たちは、大変なことになっている。(当時私は週27時間、課外と定時制出向を含めて授業していた)k先生の苛立ちも充分理解できる。しかし、fにはかわいそうなことをしてしまった。許しを請う他に方法がないのが哀しい。

 高原先生に見送られて手術室へ運ばれた。
 手術は順調に終わった。全身麻酔のとき、数を数えるのだが、私は13までは記憶していた。そのことを話すと、kさんは、「うわーっ、ふつう三つか四つまでですよ。それでも実際には10ぐらいまで数えるんです。先生は20以上数えていますよ。先生お酒飲むでしょう。だからですよ。でも、麻酔の先生呆れてたでしょうね」

 麻酔が覚めると、ベッドの傍に見知らぬ婦人が私を見つめていた。高原先生の手配された付添婦さんであった。
 高熱のためだろうか、私は大きな赤い芋虫が体をくねらせて視界いっぱいに歩くのにおびえた。
 年の暮れ、一つ置きに抜糸が行われた。数を数えていたら9つだったから、少なくとも18針は縫ってあったのだと思った。抜糸が進むにつれて傷口が上から開いて行くようで不安であった。それを口にすると、看護婦の一人が快活に言った。
 「豊永さん、後三日としたら開きますよ。明けましておめでとうってね」

 4週間後に元の病棟に戻った。私はドテラを着たまま、病棟への坂道をゆっくり歩いて戻った。楽しかった。伝えられていた前とは別の病室のベッドに腰掛けていると、婦長が飛び込んできて、
 「豊永さん、あなたは………」
 と、絶句した。捜し回ったのだそうだ。歩いて帰った患者は今までいなかったらしい。

 ようやく自力でベッドに起き上がれるようになったころ、見知らぬ青年が訪れた。
 「亀井と申します。四月から長崎東高に参ります。野地先生から豊永先生に挨拶するようにと言われ、学校で伺いましたら、養護の先生からこちらだと教えられました。手術が無事終わられたそうで良かったですね。四月からお世話になります。よろしくお願いします。」
 青年は、用意してきたらしい台詞を述べて、ほっとした顔をした。
 後の教育次長、長崎南高校長を最後に退職した亀井守正さんであった。

 手術は辛い。しかし、その後の一日ごとに回復してゆく実感は、何物にも譬えようのない楽しさである。明日が待ち遠しい。
 見舞客も減って、私は散歩の距離を次第に延ばすことに努めていた。私の前日に手術したnさんは歳も近く、回復も同じように順調であった。私たちは「戦友」みたいな気分で平和公園あたりまでドテラ姿で遠出した。
 「豊永さん、僕はね、手術の10日ばかり後、朝マラの立ってね」
 「あっ、僕もですよ。嬉しかったなあ。これで俺は助かる、そう思いましたね」
 「ええ。おふくろがね、その時来とって、体ば撫でながら祈るごとしよったとですよ。そいが、立っととば掴んで嬉し泣きすっとですよ。いつまででん、撫でさするもんけん、出そうになって………」
 nさんは、涙声で言って笑った。
 高原先生にその話をしたら、うん、うんとうなずいて、
 「しもうた、私が先生んとば撫でそこのうた」
 と、笑った。その目に涙がたまっていた。

ざくろの絵

 予定通り4月に退院した。
 新年度最初の職員会議。校長の今年度の方針を聞くため、会議室は緊張していた。
 「豊永先生が………」
 と、言って、斎藤校長は、はっと気付いて、おでこをボンボンと叩いた。皆が笑った。
 「順序を間違えて………、でも、おめでとう」
 斎藤校長の笑顔が眩しかった。

高原先生のお世話で下宿を変わった。西高の養護のt先生のお宅である。つい先日まで結核患者だった男を下宿させるほどの理解者はいない、という判断であったろう。その点t先生と子供さん(東高の生徒であった)は、みごとな理解者であった。
 その日、二階の窓に腰掛けて、春の日差しを楽しみ、立ち上がった時、私は空に投げ出されていた。何がどうなっているのか分からない。ただ、目の上に青い空が流れていた。
 気がついたとき、私は隣家との境になっている小さな溝の真ん中に、仰向けに横たわっていた。頭のすぐ右上に大きな岩があって、私を見下ろしていた。
 しばらく、状況が飲み込めなかった。
 身を起こして見ると、二階の窓が外れていた。窓の敷居が玄関の前に転がっていた。手入れをしていた大工が釘を打つのを忘れたらしい。
 私の背中に窓枠が折れて、ガラスが四散していた。
 ようやく、私はこの窓ガラスに乗って、空中を数メートル遊泳したことに気付いた。
 「それにしても………」と、私は思った。
 ――この岩に頭を打ちつけていたら、どうなっていたか知れたものではない。何か目に見えないものが僕を守ったのだ。
 立ち上がってみた。どこにも痛みは感じない。かすり傷ひとつない。ゆっくり玄関に入って、腰を下ろし、ほっと息を吐いた。
 ――助かった。いや、命を誰かにいただいた。手術を含めると、半年足らずの内に二度もだ。
 そこへ、音を聞き、庭を見た、道の前隣の奥さんが顔を見せた。
 「どうしました。どこも怪我はありませんか。東高にお勤めですよね、電話しましょうか」
 三つうなずいて、私はお礼を言い、高原先生の名を出した。着替えて、病院へ行こうと歩き出した。途中で青ざめた高原先生に出会い、「心配ばっかしかけて」と、思いっきり尻を叩かれた。
 辻外科主任教授は、丁寧に触診し、
 「悪運強い人だね。今度切らせてもらう時はここかな。」
 と、私の腹を縦にすーっと撫でた。

 私の空中遊泳は高原先生の胸にだけ収められて、他に漏れることはなかった。
 「バラすぞ」
 高原先生は時々私を脅迫した。脅迫しながら別当先生と図って、家内との見合いを実現させてしまった。

 高原先生はお孫さんに囲まれて若々しい感性を保った老後を送られている。お耳が遠いから、電話は無理である。お話をなさりたい方はfaxでどうぞ。

―了―

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