長崎東高保健室 その一 タイトル

(先生、こんにちは。梅雨とはいえ、よく降りますね。返事が遅れてごめんなさい。
 退職以来字を書くのは年賀状だけの私にとって、文章を書くのは大事業なのですよ。
そこで、何とか書かずに済まそうと、本箱の隅に眠っていた資料を探し出しました。賢明な先生に読んでいただいて取捨選択していただこうと、ズルイ手を考えました。
 ただ、先生に必要なら、生徒の事例は(先生に言われて広告紙の裏に走り書きした分)まだまだあります。私に文才があれば一冊の本ができるくらい――。
 先生とはほんとに仲良くしていただきました。単なる教員仲間とは違う、母と息子と現在も思っています。(ご迷惑?)。
 私の脚も随分良くなりましたが、杖はまだまだ必要です。おそらく生涯手放せないのだと思っています。
 そのうち、諌早まで遠征するかもね。」

 かっちりした楷書のお便りである。
 東高を語るとき、保健室から見た「東」は欠かせない視点だ思い、高原先生にご協力を求めた私へのご返事である。
 今回は、「養護教諭制度50周年記念誌」(1991年刊)に、九州代表として「昭和20年代の記録」をと要請され、お寄せになった高原先生の一文をご紹介する。


子供たちとの心の結びつきをたいせつにして

高 原 二 三
 

 私が養護教諭として初めて勤務したのは、昭和25年1月、男女共学の普通料高校で、生徒数1406名、教職員60名の大規模な進学校であった。
 当時は、保健室のことを医務室と呼んで、
 怪我の治療や病人の世話をするところ、
 予防注射や検便検尿等をするところ、
 身体計測やいろんな検診をするところ、
 結膜炎、トラコーマ等の治療をするところ、
 と、考えられていた。
 また、私のことを、学校教育法によって「養護教諭」と呼ぶように定められているにもかかわらず、「看護婦さん」と呼ぶ先生や生徒が少なからずいた。そのうえ、「赤チン先生」とか「目洗い先生」と陰口さえ言われていた。一般的に見てその程度の理解しかなされていなかったのである。
 健康診断は「身体検査」といい、その実施はすべて放課後に行われていた。現在のように学校行事として行われるのではなく、学校医と養護教諭が中心となって活動したものである。学校医との日程の決定や運営には、いつも神経を使ったものである。
 実施に当たっては、男子生徒のなかには放課後の健康診断を嫌がり、サボって帰る者もいて、体育の教師が校門に立ち番をしてこれをくいとめるということもあった。検診の日程も一日一学年の割で実施し、検診終了が勤務終了時刻をはるかに過ぎ、くたくたに疲れ果てるのが常であった。
 検査後の処理もすべて養護教諭に一任され、膨大な仕事の山を抱え、孤軍奮闘した。

高原先生の絵

 養護教諭としての勤務中、何度壁に突き当たったことか。いつまでも壁の前に立ちすくみ、ノイローゼのようになったこともあった。そんな壁を何度乗り越えたことか。乗り越えたときの喜びは何に譬えようもなかった。
 当時の生徒たちの体格は、全般的に見て「るいそう」が目立った。たぶん食料不足の故であろう。また、髪には「シラミ」がわき、ddtの粉末をふりかけたりした。疾病にしても、寄生虫保有者が多く、学校で駆虫薬を一斉服用させたり、トラコーマや結膜炎等の眼科疾患が多かったので、休み時間に洗眼や点眼を実施した。さらに、結核も多く、病型分類「a」「b」は休学させたが、父親が学校にドナリ込んできて、
 「家は肺病の血統じゃなかぞ!なんで休学ばせないかんとか!」
 と、くってかかったこともあった。休学通知を無視して登校し、喀血した生徒もいた。「c」からは要注意者として医師の治療を受けながら登校していたので、常時観察し、検温したり、必要に応じて休養させたりした。
 私の学校は、県下有数の進学校であった。それだけ、エリート意識の強い先生や生徒、そして父兄も多かった。教壇に立つこともなく、学校の片隅で黙々と一人仕事をしている私は軽視され、お茶汲み要員程度にしか理解していない人々もいた。そんな人々に学校保健の何たるかを理解してもらい、協力してもらうにはどうすればよいかを考えた。
 まず、養護教諭というものを知ってもらうことだと思い、保健室を訪れる生徒たちとの相互理解を深めたいと思った。学校の片隅の保健室で、人生、友情、愛、希望、そして、死などについて、時の経つのも忘れて熱っぽく話し合った。生徒たちは、迫る夕闇に驚きあわてて、
 「先生、楽しかったね。また明日来てもいいでしょう」
 と、嬉しいことばを残して帰っていった。
 こうした生徒たちとの輪が次第に広がってゆき、「保健部」という同好会的クラブが発足した。そして、部員たちのめざましい活躍で、保健部の存在は次第に注目され、認められて、私の仕事も随分としやすくなった。保健部の活動を通して、先生方や父兄との交流が深まり、協力を得られるようになったのである。
 古希を向かえ、一人住まいの私を、折にふれては訪れてくれたり、安否の電話をかけてくれたりする。
 「先生、元気―――。何も困ったことなかね。何かあったら言わんばよ」
 と。
 思春期真っ只中、それぞれに問題を抱えて苦悩している生徒たちの心を開かせることに心を砕いたことが、生徒たちに通じていることを嬉しく思う。
 現職の先生方のご健康とご多幸、そして、ご発展をお祈りして、筆を擱く。

 淡々とした筆致の陰に、「もう辞めようと何度思ったか知れんとよ」という先生の苦しみと、努力が隠されていることを読み取っていただきたい。

 高原先生は、昭和52年、保健室活動で第26回読売教育賞を受賞されている。
 その選考カードがある。その評――。
 「進学率の高い大規模高校(33学級・1477名在籍)におけるよく工夫された保健室活動である。応募者は養護教諭経験22年、指導主事歴5年のベテランであるが、ベテランにありがちな経験主義に陥ることなく、進学受験体制に傾きやすい高校教職員を巧みに組織化して、保健主事、hr担任による学校保健委員会と保護者会保健部との連絡綱を作り、さらに1・2年生を主体とする生徒保健委員会とhr保健委員会を保健主事のもとに組織し、保健部と環境美化委員会という貝体的活動体を生徒保健委員会の下に活動させている。これらの組織活動について、報告はむしろ控えめに触れているにすぎないが、保健室がそのために必要な資料提供や協議助言に当たっていることは、添付資料によって充分に察知される。すなわち、多量の校内健康情報の整理と処理及びhr担任・生徒保健委員会への情報交流という特色が主体的活動力を持つ高校生対象の保健室活動として、技術的保健管理をいっそう生かす効果を発揮している。ここに優れた点がある。」

 受賞されて当然の業績である。しかし、その業績を支えている先生のお人柄を、東に関係ある人々は忘れることはできないであろう。まっすぐなご気性は時に誤解を招く面もあったかもしれない。女性にしておくのは惜しい(差別語か?)ほどの行動力と決断、常に前向きの姿勢に、私は多くのものを学んだ。忘れてならないのは、先生のすべての行動の底に、あたたかい愛情が、大きな包容力があったことである。だから、先生の周囲は常に明るかった。接する者はいつの間にか悩みから解き放たれ、生きる力を与えられた。
 受賞される前にいただいた電話を思い出す。
 「どうしょうかって悩みよっとさね」
 「なんば悩むことのあるね。あいだけん仕事は誰にもできん。威張って貰うてこんね」
 「新聞社やろ。いろいろ訊かるったい。どがん言えば良かと」
 「先生の思うとるとおり言えばよか。飾って言おう思うたらいかんよ」
 「そしたら、変に書かれるたいね」
 「絶対にそがんことはなか。考えてみんね。自分たちで選考して賞ばやる人のことば、どうして悪う書かれるね。ちゃ-んと、記者が恥ずかしゅうなかように書くと」
 「ああ、そうたい。そんなら私の思うとることは、そのまま言うて良かとね」
 「先生は芝居は下手やっけん、ありのままがいちばん良か」
 「分かった。そんなら貰うてくっけん。ああ、先生に電話して良かった」
 と、心底ほっとした声を残して電話は切れた。

 次回から、私自身と先生、先生のお人柄の良く出ているエピソード等を紹介したいと思う。
 (実は、先生を主人公にした小説を書きたいと思っている。先生ほど「花は野の花」にふさわしい方はいない、と思うからである。承諾はまだいただいていないが……)

―了―

恩師ページに戻る