源氏タイトル画像

 私はいま、総合カルチャー・スクールnbc学園と、長崎市医師会婦人部「いにしへの会」の二箇所で、『源氏物語』の講読をしている。いずれも教え子の依頼で始めた古典講 読講座である。私は専門家ではない。ただ受講者のご婦人方に、「源氏」の本文を読みながら、私の読み取った「源氏」をお話しする、それしかできない。

 時々、疑問点や、納得できない解釈、評釈にぶつかる。
 「桐壷」でもそれがあった。
 「いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふ」桐壷の更衣が、病のため宮中から退出するとき、虫の息で帝に挨拶する場面である。

 「限りあらむ道にも、おくれ先立たじと契らせたまひけるを、さりともうち捨てては、え行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと見たてまつりて、
    「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
いとかく思うたまへましかば」と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じ果てむとおぼし めすに、「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵より」と聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら、まかでさせたまふ。(新潮日本古典集成による)

 池田彌三郎氏の『はだか源氏』は、この部分について次のように述べている。
 ――この歌、後世風に言えば、いわゆる辞世の歌だが、そんな死ぬか生きるかというような境に作る歌で、なおいかまほしと、行くと生くとをひっかけてある。

いつまでもこうして一緒にいるわけにはいかない。制限があるからというわけで、別れて行く世界の悲しさにつけても、行きたい、ではないが生きたいのは、私の命だ。
 というのである。すらりと単純化ざれた、源氏の中でもいい歌だが、それでもなお、こうした意味の二重性ということを、当時は歌に求めていた。道と言ったから行くと出て来て、それを同音で転換して、生くともって行く。これは歌にはありがちなことだが、要するにだじゃれである。それもことばの音の上だけのだじゃれにすぎない。悲しみの極地でこうしただじゃれをもて遊ぶのだから、まったく悪い癖だというほかない。
 本来ならば、ここで当然帝のお返しの歌がなければならない。しかしここでは作者は帝をして歌を作らせていない<傍線筆者>。これは、源氏のここらあたりが書かれた時にはそうした形式――歌には歌を持って答えるという約束が、必ずしも守られなくなっている時代だという事になるが、昔の読者は、何でも源氏を神聖視して賞めようとするから、 帝の御返歌がないのは、「心も心ならず、思し迷える」心の程が知れるではないかと賞め ている。――

 また、玉上啄彌氏の『源氏物語評釈』では、語注として、まず歌をあげ、
 ――これを限りとして、死出の道へお別れしてゆきますこと、それの悲しいのにつけましても、わたしがほんとうにいきたいのはお別れの道ではございません。ほんとうにいきたいのは、命でございます。「行く」と「生く」とをかけことばにしてある。ふつう歌で「行く」というときは「ゆく」を使って「いく」は使わない。「生く」とかけことばにしようとして「いく」といったのである。だじゃれというべきことだが、当時の人はかけことばをとくに好んで用いた。音韻組織が簡単で、同音異義語の多い日本語では、かけこ とばは使い易く、聞き易いものである。
 と書き、次に更衣の最後の言葉「思うたまへましかば」の敬語を説明して、その後、
 ――このあとに、更衣はなんといおうとしたのであろう。「申し上げておきたいことが数々ございましたのに」か。「おそばに参るのではございませんでしたのに」か。後者と考える。自己を主張しない更衣であり「なかなかなる物思ひ」をする更衣であるから。前者であれば、すぐあとに「聞こえまほしげなることはありげなれど」と、作者がそこをわってしまったことになる。この作者は、そういう書き方をしない人であるから。――
 とし、さらに評釈では、
 ――主上はいったん退下を許した更衣の局に、御自分の方からお出かけになり、あらためてかきくどかれる。女は最後の力で歌を詠む。
 この歌と言葉が、「我かのけしき」なる更衣の最後の努力であった。くるしげに息をはき、たゆげに目をとじる。更衣は思考力を失い、意識は混濁したのである。われらは、主上の目によって見、主上の心になって考えなくてはならない<傍線筆者>。
 歌を詠みかけられれば、返歌するのが礼である。主上は返歌していない。返歌できないのである。返歌どころではないのである。宮中にこのままおいて死ぬか生きるかと見とどけたいとまでお思いになる。日本の古来の信仰はけがれを忌む。けがれの中で最大なのは死のけがれである。宮中で死ぬことができるのは主上だけである。その余は死ぬ前に外に出さねばならない。それでも宮中においておきたいとは、主上は理性を失っておられる。――
 と、「心も心ならず、思し迷へる」の現代版である。

 しかし――、と私は思う。
 「死出の道にさえ共に行こうとお約束なさったのに、いくらなんでも私を残しては一人里へ行けはすまい」と桐壷帝がおっしゃるのに、女(更衣)は、死を自覚していたからこ そ、文字通り懸命に、最後の力をふりしぼって、臣下としての礼を尽くした挨拶(歌とことば)をした。それに対して、帝は正面から向き合って返歌をしない。いわば黙殺してい る。桐壷帝は「色好み」ではないか。恋愛感情を熟知した紳士ではないか。その紳士が、礼に対して礼をもって返さぬとはなにごとか。男の風上にもおけない。それほどに理性を 失って、ただオロオロと、死を前にした愛する女の前で、取り乱していたのか。
 桐壷の更衣は、弘徽殿の女御をはじめとする女御更衣たちによって、いじめ殺された。 呪い殺された。あの理性的な更衣の母北の方も、帝からの弔問の使者靭負の命婦に自分の娘の死を「横様なるやうに」と言い、藤壷参内の勧めにその母后は、「桐壷の更衣のあらはにはかなくもてなされし例」を挙げて反対している、いわば天下周知の悲惨な死に方である。加えて、わが身の死を自覚しながら、最後のお別れのことばを言上したのに、帝からは礼をもっての返歌もない。黙殺される。更衣にとっては、踏んだり蹴ったりの始末、極度の悲しみは生きる最後の支えをなくし、里邸に退出すると間なくに息を引き取る。
 このように作者は構想したのだろうか。もしそうなら、なぜ光源氏の母を、かくも悲惨な最後に仕立てなければならなかったのであろうか。余りにも悲しすぎる死であり、帝のふるまいも紳士らしいふるまいとは言えないであろう。ただ、色恋にうつつをぬかすだけの男だったとしか言いようがなくなる。後の光源氏を臣籍に降下させる判断や、「いづれをもなだらかにもてなして、女の怨みな負ひそ」(「葵」)と諭す「色好み」の総本山か らは、程遠い姿である。この時帝は若すぎたのだというのは、逃げ口上であろう。

 こんなことを考えて、私は、池田、玉上両氏の評釈に釈然としないものを覚えていた。帝の返歌のないことが、私には得心が行かなかったのである。

 あるとき、これで解明できるかもしれないと思ったことが、頭をよぎった。なんだったのだろう。私は源氏関係のカードをめくった。
 あった。
 それは、大野晋・丸谷才一両氏の対談で構成されている『光る源氏の物語』上の「葵」の一節である。
 大野先生のことばを引く。

 ――それからもう一つ大事なのは「(なさけ)」という言葉。この言葉は『源氏物語』を読むときにちゃんと覚えておくといいですね。今日、「情」というと、精神的な価値が非常に高い、本質的にその人が人類に対して愛情をもっているみたいなときに「情深い人」とかって言います。
 ところが、『源氏物語』の「情」というのは、そういうたいへん立派な意味じゃないんです。「うわべの(なさけ)」と使うんです。「なさけ」の「け」は「形」「見た目」なんです。「なさ」は「なす」という動詞の名詞形だとぼくは思うんです。「つとめて何かをする格好。目に見える形」ということなんです。
 だから(中略)本妻に対しては夫は「情」をかけないんです。六条御息所に対しては源氏は「情」を尽さなきゃいけない。六条御息所との関係においては「情」、つまり形としてすることを尽さなくちゃいけないと源氏はとらえているんです。
 そこに六条御息所と源氏との間の、本質的な食い違いが見てとれる。源氏にとっては、結局、六条御息所は何人かの女の一人にすぎない。紫の上、これはかけがえがない。葵の上は正妻です。(中略)ところが、六条御息所にとっては、源氏以外に相手になってもら いたいと思う人もいないし、源氏以外は心の中に出てこない。その食い違いが怨霊になって出てくる。そのことを知るのに「情」という言葉が役に立つと思いますね。
 六条御息所から歌が来たのに返歌をしないと「情なくやとて」光源氏は歌を送る。この表現が源氏の六条御息所への本質的な気持を表しているのですね。「情」というものは、そのように努めてする形なんです。――

 この「情」は、例えば『枕草子』二百五十二段(三巻本)にも、そのまま当てはめて考えることができそうである。

    「よろづのことよりも、情あるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼゆれ。」

 「情あるこそ」平安時代の理想的な紳士淑女である。和歌、返歌、古典をふまえたさり気ないことばといった「つとめて何かをする格好、目に見える形」として、思いを表すこ と、いわば優雅な演技力が、理想的な紳士淑女に求められた条件であったことを、清少納言は示していると観てよかろう。

 「若紫」の巻――光源氏の少女誘拐事件でも、この「情」が見られると思われる所がある。

 二条の院は近ければ、まだ明うもならぬほどにおはして、西の対に御車寄せて下りたまふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きておろしたまふ。少納言、「なほ、いと夢のここちしはべるを、いかにしはべるべきことにか」と、やすらへば、「そは心ななり。御みづからわたしたてまつれば、帰りなむとあらば、送りせむかし」とのたまふに、わりなくておりぬ。にはかに、あさましう、胸も静かならず。(新潮日本古典全書・傍線筆者)

 光源氏は、さらってきた少女を、二条院は近いので、すぐに自分の邸に連れてきて、軽やかに抱いて下ろした。乳母の少納言は、しょうがないから付いてきたけれど、どうも何か割り切れないから、「やはり夢のような気がしますけれど、私、どうしたらよろしいのでしょう」とためらって言う。すると、光源氏が「それはあなたの考え方次第だろう。ご本人はもうお移し申したから、あなたが帰るということなら、送りましょう」とおっしゃるので、少納言は仕方なくて車を下りた。急のことで、胸の波立ちも静まらない。

 という場面である。
 本文が「わりなくて(仕方がない、止むを得ないという状態で)おりぬ」となっている場合、光源氏の最初のことば、「そは心ななり」は、訳のように、「お前の気の済むようにせよ」という突き放した態度を示したことばになる。
 ところが、別の本では、ここは、「笑ひておりぬ」とある。
 この場合、少納言は、なぜ、「笑ひて」車を下りたのかが問題である。
 答は、光源氏の「そは心ななり」は、
   わすらるる身をうつせみの唐衣返すはつらき心なりけり  (後撰集)
   (あなたから忘れられるこの身を、蝉が脱け殼を残して去ってゆくように、あなたは残して去っていった。残されたのはこの唐衣だけ。これを返すのはつらい)
 という歌をふまえたことばで、
 「こんな歌があるじゃないか。だから私も辛いんだよ。いてほしいと思うんだけど」という気持ちを表している、ということになる。つまり、少納言に対して、直接的に「ここにいなさい」と命令する言い方でなく、相手を立てた言い方、自分と同じ世界にいる人と見ている言い方になっているのである。
 相手を見下していない場合、つまりは相手を教養人と見るとき、会話のなかに和歌を引用する。和歌の引用のないような直接的な言い方は見下した言い方になる。
 和歌を引用して、「君を帰したくない、帰すのは辛い」と光源氏は言ってくれた。「自分と同じ文化圏の人間として私を扱って下さった」と、乳母は思った。だから、思わず笑みがこぼれた。が、彼女はすぐに、現実に直面して、笑いをひっこめる。
 とんでもない形で少女を奪っておきながら、一人前の教養人として扱い遇しているのだということを示したのが、「そは心ななり」ということばであった。
 光源氏の女ゴロシの名人を思わせる言動である。というより、「情」、つまりは「つとめて何かをする格好、目に見える形」を示して、若葉の姫君(後の「紫の上」)の乳母として、この少納言が適格かどうかを見ようとした、とも受け取れそうである。結果は、「 笑ひ」がこぼれたので、合格。姫の教育に欠かせない人材を得た安堵の思いが伝わる場面と見ると、ここは「わりなくて」よりも「笑ひて」を採りたくなる。(以上、『光る源氏の物語』の「若紫」を参照している)。

 そして、また、この大野説の「情」で、先の桐壷帝の立場を考えてみると、「作者は帝をして歌を作らせていない」事情がはっきりする。

 更衣は、死出の道に旅立つことを自覚し、帝への別離の挨拶すなわち「情」を述べなければならなかった。それが、身分社会における臣下としての、なすべき当然の礼であった からである。
 その挨拶が、「努めて」する「目に見える形」としての、「すらりと単純化された、源氏の中でもいい歌」であり、それに添えられた、言いさしの、短いことばであった。
 ところが、ここで帝がその更衣の歌に返歌をしたら、帝は、彼女への愛を、「つとめて何かをする格好。目に見える形」として、わざわざ示すことになる。つまりは、更衣を、「あまたさぶらひたまひける」女御・更衣の中の一人にすぎない存在として、最後の最後に扱ったことになってしまう。
 それは、弘徽殿の女御一派よりもタチの悪い行為とも言えよう。
 だから、もし帝が返歌をしていたら、そして、それが、古歌の引用や、巧みな縁語、かけことばの使用された、帝の教養を示した見事な返歌であったら、更衣の受けた悲哀・落胆は、たとえようもないものになったろう。
 だが、帝は返歌をしなかった。帝は「色好み」の紳士であった。
 恋愛感情を熟知した帝が、返歌をしなかったから、更衣は、帝の、男の愛情を胸深くに抱いて、逝くことができたのである――と観たい。

 では、帝はどうしたのか。
 更衣の挨拶続く、言葉を、「主上の目によって見、主上の心になって考え」てみよう。

 「息も絶えつつ」――帝の目に見える更衣の姿。
 「聞えまほしげなることはありげなれど」――帝の心に映る更衣の心。
 「いと苦しげにたゆげなれば」――再び帝の目に見える更衣の姿。

 帝は、更衣の挨拶を、途中で遮った。そして、なおも「息も絶えつつ、聞こえまほしげなること」を言い続けようとする更衣を制止し、しっかと、その目と心で更衣の心を受け止め、黙ったまま自分の心におさめたのであろう。
 更衣は、帝の深い無言の愛情を、それと確認しながら、言いようもない喜びと安堵の思いで満たされたろう。
 が、更衣の病状は「いと苦しげにたゆげ」にと、急速に悪化していった。

 そう、作者は伝えたかったのではなかろうか。
 このように読んでみると、帝の返歌のないことが、かえって男としての深い愛情表現とうけとめられ、私には納得できる。

 帝は、更衣の病状悪化を目の前にして、「このまま生死のほどを見届けよう」とお思いになる。愛情のうえでは極めて当然の思いも、死の穢れを忌む宮中のしきたりからは、非常識極まりない思いである。
 そういう男の感情の推移を見通していた人がいた。桐壷の更衣の母北の方である。その「いにしへの人のよしある」人の理性と判断と実行、
 「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵より」
と、こまぎれの緊迫した表現で、更衣の宮中退下を奏上、促進したことが、帝の権威失墜を防ぎ、光源氏の将来を守り、更衣の消しがたい汚名を払っていることにも留意したい。

 里邸に退下すると、間なくに更衣は亡くなった。

 更衣の葬儀も終わるころ、帝は更衣を失った深い悲しみとともに、まさに危機一髪、更衣の母北の方に、自分をはじめ、愛する人々が救われたことに、気づかれたはずである。 だからこそ、その後、何度も、更衣の里に「親しき女房、御乳母などをつかは」して、母北の方を弔問させることになる。もちろん、北の方と同居している光源氏が気になるからではあるが……。

 なお、更衣の最後の言葉、「いとかく思うたまへましかば」の後に省かれた言葉は、特定しないほうがいいのではないか、と私は思う。読者の想像にまかせておけばいい。
 常識としては、「あれも、これもと、してさしあげたいことがたくさんございましたのに。(何もできないままお別れする私をお許しください。)」ぐらいだろうか。
 玉上氏は、
 「(こんなに早くお別れすると存じていましたら)、お傍に参るのではございませんでしたのに」
 と、考えるとのことである。しかし、三歳の男の子を後に残して、死を覚悟した女が、こんなにヒネッた言い方をするだろうか。まるで、「お傍に参りましたばっかりに、子供までできてしもうて、エエ迷惑ヤ」と言わんばかりにも思えるのだが。
 「なかなかなるもの思ひ」は「おとしめ疵を求めたまふ人」が多いからの「思ひ」で、自己主張をしない愛情表現は、帝を魅惑する一つの要素であったとも考えられよう。
 ともあれ、この省略部分に関する玉上氏の説は、私のような素人には納得できない説ではある。

 「聞こえまほしげなること」とは、愛されたことへの喜びであり、お礼であろうし、また、「生きたい」との願いは、愛の存続を願うことであろう。死の近きを知り、帝へ、自分の愛情表現の不足や拙劣さを詫びる思いもあったろう。が、何よりも、後に残すわが子への思いが、「生きたい」との願いや「申し上げたいこと」の中心であるはずである。
 愛する人との間に生まれたわが子の将来を思わないで死ぬ女はなかろう。ましてや、「 横様なるやうに」扱われて死んでゆく女は、三歳の子供を後に残して死を覚悟したとき、 最も愛し、最も信頼する男に対して、わが子の将来を託さずにはおれないはずである。

 以上の考察を終えて、八十歳の老人は、ようやくその内心性ストレスを解消できた。
 「好い気なもんだ。こんないい加減な話を聞かされている方が気の毒だ」――と?
 それは、そう。 でも「八十は老いの序の口」と、どなたかがおっしゃっていた。だから、・・・・。

―了―
(二〇一〇・〇八・〇七 立秋の日に)
  

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