東高24回生(虹の会)が修学旅行をするという。
平成19年5月26日、嬉野一泊。参加者25名。
「話が急だったので参加者が少ないようです。ですから案内は先生だけ。それで、最初に授業を、10分ないし15分ほど、お願いできませんか」
とは、幹事長の高原君(3年1組・担任豊永・元応援団長、現在私の主治医)の言。
頼まれれば引き受けざるをえない。宿泊費ぐらいは「寸志」として、うまくゆかなかったときの言い訳にしよう。しかし、問題は、何を話すか、である。
「色好みの資格」「平安朝文明の特徴」「徒然草第三十三段または第六十二段」(まず誰も読んでいない短い話)などと考えて、
――待てよ、これは余興だろう。ならば……。
と、考えた授業案が、次のようなものになった。
full it care car was to be come water sound!
最近は英語でものを言わないと、学がないように思われる。そこで、ここに、こんな英文らしきものを用意した。日本語に翻訳すると――。
「古池や蛙飛び込む水の音」はせを(板書)
かの芭蕉の俳諧開眼の句。
まず、「や」に注目しよう。感動を表す終助詞、又は間投助詞。俳諧の世界では「切れ字」という。
「古池」と言えば、単なる名詞。 「古池っておったや。何組やったかね」ってところ。
その「古池」が、この「や」を伴ったとたん、諸君の胸にそれぞれ異なった古池の姿となって浮かび上がる。「古池」の姿と、それへの思いは、人それぞれである。
が、感動の基本はほとんど変わらない。それは「静かさ」であろう。「静」の境地。
(3コマのマンガを描く。静aは古池・動は蛙の飛び込む姿・静bは波紋)
そこに「蛙」が登場する。季節がわかる。春である。和歌的伝統の世界では、「蛙」は「嗚く」もの。それを、芭蕉は「飛び込む」という動的で滑稽なユーモラスな姿として取り入れた。これが俳諧の世界。「俳味」である。
「古池」という「静a」に、「飛び込む蛙」の「動」を加え、「水音」の後の「静b」の世界を描いた。句のねらい、要は、この「静b」にある。
二つの「静」の世界を比較すると、a<bである。「動」を伴ったがために、「動」の後の「静b」は、その深み・重み・つまり与える感動が、単なる「古池」のイメージにある種の意味を加えた世界となっている。
その点が、もともとことばの遊びに近かった俳諧を、新しい詩情を持つ文芸に変革しているといえる。だからこそ、この句は、俳諧の歴史の上で画期的な句となった。ということは、日本文学史の上でも画期的な作品ということになる。
さて、芭蕉は、この新しい俳諧の文芸性をさらに深めようと『奥の細道』の旅に出た。
――月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず……。
(朗誦しながら板書を消す)
芭蕉は尾花沢までやって来た。すると、そこの鈴木という同好の士から、「立石寺に寄ってきたか。あそこはいい」と聞く。
「一見すべきよし人のすすむるによって」「とって返し、その間七里ばかりなり」。
「七里」と言えば、約28キロ。諌早駅から国道を通って浦上駅ぐらいまでか。もみじマークで約40分の距離。芭蕉は、勿論歩いて引き返した。
着いて見てみると、これが凄かった。
「岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞えず。岸をめぐり岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみ覚ゆ」
閑かさや岩にしみ入る蝉の声(句のみ板書)
この句、『奥の細道』中の絶唱と言われるのみならず、芭蕉の作句中の傑作と評価されている有名な句である。
「や」の切れ字に注意。既に日は落ちて、月はなく、ただ星が一面に空にあって、目の前には、岩また岩が、星の冷たい光に冷え冷えと見渡される。音一つない、不気味な閑かさである。
おっ、あれは何だ?
一枚の岩の真ん中に、お盆ほどの丸い光、青白い光が見える。
その光の中へ、蝉がすっと降りてきた。蝉が羽ばたいている。が、飛び立てない。
おっ、蝉の脚が、ジクジク、ジクジク、青白い光のなかにしみ込んでゆく。必死の羽ばたき。
やがて聞こえる蝉の断末魔の声。
光は、ほんのりピンク色に変じ、やがて消えた。
一面に広がる星の下の岩また岩。不気味な静寂が支配する。
と、また、白い光が、青白い光が、岩に……。
そうか、あれは、虫を食う岩、虫食い岩なのだ……。
あっ……。おっ……。ああっ!(ボードの裏に隠れる。隠れたまま、ゆっくりと)
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
(間を置いて表に出る)
今日はここまで。
また、明日、逢おう。
ハプニングの連続。
あらがじめ書いていたボードの英文は消されて欠席の葉書が展示されていた(これは、むしろ品を落とさないで良かった)。
ボードに書いた文字が消えない。油性のものが混じっていたらしい。
人生、常に、ままならぬ。
東の生徒は、大人になっても怖い。単なる余興にすぎない戯れ解釈なのに、笑って拍手した直後、
「『静』のしずかさと、『閑』のしずかさと、どう違うのですか」
と質問する。およそのカンでは説明できそうだけれど、カンに頼るのは危険と判断。
「不明にして知らぬ」
と、答える他なかった。
慙愧に注ぐ酒はほろ苦かった。が、「閑かさや」の句で、「閑」に留意した解釈・鑑賞は今まで見なかった、と、思った。これは、大変なプレゼントかもしれない、と、思う。とたんに、お酒が美味しくなった。
『大漢語林』にあたる。
『静』―争(爭)十青() 青はすみきるの意味。争はあらそうの意味。争いがすみきってくる、しずまるの意。
『閑』―門十木 門の前に木を置き他からの侵入を防ぐ、しきりの意味を表す。また間に通じて、ひま、のどかの意を表す。
「古池や」の句について見る。
「古池」の「しずかさ」は、いつ破られてもおかしくない「しずかさ」である。換言すれば、破られること、即ち「争」または、「動」なり「騒」なりの、必然的到来を予期している「しずかさ」――とも言える。
げんに、「蛙飛び込む水の音」で、簡単にその「しずかさ」は、いったん破られる。そして、次にまた「しずかさ」が戻ってくる。
だから、「古池や」の「しずかさ」は「静」でなければならぬ。
「閑かさや」の句は、その前の文章に注目する必要がある。授業案で示した「岩に巌を重ねて」以下の文である。
この文から考えると、芭蕉は、立石寺の山容に、俗界を峻拒する「しずかさ」を感じ取った、と見る。俗界に対する「しきり」を設けた「しずかさ」なのである。いわば、意識的に隔たりを保つことによって得られる「しずかさ」と言ってよかろうか。
「その間七里ばかりなり」の次に、実は「日いまだ暮れず」とある。だから、山上に達した時、蝉の声は耳にしていた、と、見るべきであろう。しかし、それは、芭蕉の耳には入らなかった。「物の音きこえず」と明言している。したがって、このとき、芭蕉には「心すみ行くのみ覚」える自覚しかなかったのである。
芭蕉は、いま、俗と一線を隔てる「しきり」を置いた、彼の求めていたいわば理想的な世界に、俗なる我が身を委ねている。そこでは、「蝉の声」は、芭蕉の持つ俗をも伴いながら「岩にしみ入る」、つまりジクジクと岩に浸み透り、「物の音」一つしない「心すみ行く」世界、「閑」を用いる他ない「閑か」な世界、を造りだしていた。
立石寺の持つ特異な世界、俗を排した世界に身を置いた芭蕉は、我が身が清められるのを悦びながら、それを「閑かさや」と言った、と、見ていいのではないか。とすれば、ここで用いられている「や」の感動は、深い。
私は、今、そう解釈している。
質問のおかげである。
手元にあるこの句の評釈で最も詳しいのは、麻生磯次氏の『芭蕉物語』である。これには、まず、立石寺の説明が克明にされて、次いで、次のように説かれている。
「芭蕉は静寂な山中にあって、こういう句をよんだ。
山寺や石にしみつく蝉の声 芭蕉
この句は「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」と改案され、さらに、
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
と改められた。「さびしさや」を「閑さや」に改めて寂寥の感じを閑寂な感じにかえ、しみつく、しみ込む、しみ入る、と三変して、蝉の声が、じくじくと石にしみ入る感じを適切に表現したのである。
蝉の声が聞えるといっても、その日は五月二十七日(陽暦七月十三日)で、北国のことであるから、蝉の数はそれほど多くはない。満山蝉時雨というような騒々しいものではなかった。その蝉も油蝉ではなく、ニイニイ蝉で声もやわらかである。初蝉でまだ数が少なく、鳴き声も乱れていない。いくつかの蝉が一つになってじいっと鳴いているのである。
蝉の声は潑刺とした夏の風物で、華やかなものである。しかし今鳴いている声は、全山に響きわたるような騒々しいものではなく、しかもその声は岩の中にしみ込んでいるのである。動的で華やかであるべき蝉の声が寂然不動の岩の中に吸い込まれている。動と静とが対立するように見えて、実は静の中に摂取されている。蝉の声はあたりの静寂を破るどころか、その声が岩に摂取されることによって、一そう閑寂な雰囲気を作り出しているのである。
岩といっても一つ二つその辺にころがっているようなものではなく、岩に巌を重ねて全山皆岩というような巨大な岩である。岩は風にも雨にも泰然自若として静寂そのものを象徴している。その岩に蝉の声がしみ入るのである。
「しみ入る]というのはじっくり浸潤するさまをいう。さっと表面を流れるのではなく内面的に深く喰い込むのである。これは蝉の声が岩にしみ入るのである。大きな岩がじっと耳を澄まして、その中に蝉の声がしみ入るように芭蕉は感じたのである。「岩にしみ入る」というと、普通は清水などがたらたらとこぼれて、それが岩肌にしみこむように考えられる。山中には松柏が茂り合い、岩に苔が生えて、じめじめした感じのところもある。そこで水のしたたり落ちて岩に浸潤するさまを念頭において、岩にしみ入るといったのかもしれない。
芭蕉たちが山中を歩いている間に、時刻は暮れ方に近づき、あたりは一そうひっそりと静まりかえってきた。閑寂を求めていた芭蕉は山気にうたれて、自分の心が澄み透るような思いになった。
『何という静けさであろう』と、芭蕉は魂の底からしみじみとそう思った。その感じがいつまでも残っていて、初案の「山寺や」を「閑さや」と改めたのである。
この句は自然の閑寂相に徹した句で、芭蕉の会心の作である。蝉の声が岩にしみ入るというよりも、芭蕉自身の心が閑寂の世界に吸い込まれていたのである。芭蕉の芸術の特色が最もよくあらわれた句といえるであろう。
芭蕉は予定を変更して、立石寺に詣でたのであるが、それは決して無駄な回り道ではなかった。「閑さや」の名吟を得、また『奥の細道』の中でもすぐれた名文を残すことになったのである。」
この解説でも、他の諸評釈・解説と同じく、やはり「閑かさや」と「閑」の文字を用いた意図は説明されていない。「山寺や」でもなく、「さびしさや」でもなく、「閑さや」と「閑」の文字を用いることによって、芭蕉の立つ位置が「立石寺」であることを明確に示していることに、誰も気づいていないようである。
私は、戯れ解をして、「閑」と「静」の区別を訊ねられ、その違いを知り、「閑さや」の名吟に一つの新しい解釈を加えることができた、と、思っている。
良き教え子に恵まれた幸せを、しみじみありがたいと思う。