カタバミの花

 書斎―といっても物置部屋みたいなものだが―に、私には不似合いなものがある。野球のサイン・ボールである。
 ― 臼井さん江 / スワローズ / 金田正一 ―
 「臼井さん」とは、家内の兄亨(3回生)である。名投手金田正一氏と亨の出会いは、亨が大学卒業後東京法務局に勤務しはじめた頃のことであった。金田氏に関する仕事を担当したのである。
 東高時代甲子園に出場―「僕は控えのピッチャーとしてベンチにいただけ」と亨はこの話になるとはにかんでいたが―した、かつての野球少年が、偉大な名投手を目前にして、そのお役にたつことができるという感動は、並大抵のものではなかったであろう。
 「いろいろお世話になった。ありがとう。食事でもいかが」と、金田氏は亨を誘ったという。亨はその度毎に、特別なことはなにもしていない、公務員として当然のことをしたまで、と断った。仕事を終わった後、金田氏がふらりと法務局へ現れ、
 「臼井さん、感謝の気持ちだ、これなら受け取ってもらえるよな。」
と差し出されたのが、このサイン・ボールである。
ボールを転がす子供  「律儀な方でした。感激でした。これは僕の宝物」と、亨は何度も話していた。  長男が三歳ごろのこと、このサイン・ボールを手にし、ころころ転がしては喜ぶのを見て、亨は「ナオシ君に上げようかな」とつい口にした。そして、「うん?ぼくに……」と長男が首を傾げたのに頷いたばっかりに、亨の宝物は長男に奪われてしまった。子どもがボール転がしに飽きるころから、このボールは私の本棚の一隅を占め、そして今は、岡山法務局長在任中にこの世を去った亨の面影を偲ぶよすがともなっている。

 生前の亨の話にしばしば登場した「ムネヒロ」こと吉田宗弘氏は、東高野球部の黄金時代を代表する名ショート、スラッガーである。
 初めてお逢いしたのは何時のことであったか―、その時、「東京に店をお出しになった当初は大変だったのでは」とお聞きすると、
 「吉宗の茶碗蒸しば、東京ん者が何て言うたと思います。こげん甘かとん食わるっかて―。東京ん者の舌ば引き寄すっとに長うかかりました。」
 と、食文化の相違を克服する困難さを淡々と話された。

 家内の弟亮(12回生)が若くして亡くなった。東芝に勤めてこれからというときの教え子の死は辛かった。葬儀は横浜の某寺で行った。雪が寺の樹の下に積もっていた。通夜に吉田氏から暖かい食事と毛布数十枚が届けられた。喪主をつとめた亨が特に頼んだのでもなかった。吉田氏は、寺内を一瞥するや東京に取って返し、すぐに手配し、自ら車を飛ばして運んで下さったのである。
 葬儀の終了後、兄弟姉妹は横浜駅前のホテルに入った。悲しみと疲労でぼんやりしていると、亨が私ども夫婦の室に来て、黙って手にした酒を差し出した。二人は黙りこくったまま酒を口にしていた。
 「ムネヒロが……。ムネヒロのおかげで……。」
 と、突然亨が言った。後は言葉にならなかった。大粒の涙が頬を伝わって落ちていた。

 先年、亨の七回忌の法要に吉田氏をお招きした。三回忌には、東京からわざわざ来ていただくのはと遠慮していた。「実の兄弟のように親しかったのだから、ご案内だけはさしあげた方が……」と勧めていたのである。
 ご夫婦でお見えになった吉田氏は、しごくお元気で、談たまたま野球に及ぶと急に饒舌になられた。
 「トオルんごたっとのおったけん、甲子園にゆかれたと。トオルは、ベンチにすわっとるだけで、そいだけで、おいたちゃよかったとですよ。」
 奥さまが傍から、
 「ここにトオルさんがおってみんね。予選の第一試合から甲子園まで、一球、一球、全部話すとやけん、こん人達は……。」
 と笑われる。
 「今日吉田さんに来ていただいて、トオルがいちばん喜んでいるでしょう。」
 私が言うと、吉田氏は急に料理をつつきはじめられた。見ると目が潤んでいる。
 「十三回忌にゃ、またよばんばよ。」
 帰り際に言われたこの言葉が、私の最後に耳にした「ムネヒロ」さんの言葉であった。
 私は吉田氏に「ナガサキっ子」の一つの典型を見る。優しさと思いやりをユーモアに包んでそっと出す、あのスマートさは真似できない。
 ーもうすぐ「ムネヒロ」さんの初盆……。たっぷりある時間を使って、いまごろ二人はどんな野球談義の花を咲かせているのだろう。

 国鉄スワローズ金田の堂々たるピッチングからは想像すらできないほど繊細でたおやかな文字に見入りながら、私は、吉田氏と亨の懐かしい長崎弁と慈顔を思い浮かべている。

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