コッコデショ

 わらわらっと白い体操服の群れが、城の古址の森から湧き出る。と、見る間に段々畑を駆け降りてくる。
 青竹を運ぶ群れは、東高を囲む三方の山々から、次々に校門を入ってくる。遠くは愛宕あたりから繁華街を勢い良く走り抜けてきていた。
 猫の額のような運動場を取り巻いて桟敷が組まれる。それぞれのクラスには棟梁とおぼしき子がいて、クラスの全員がその指示に従っている。
 校内では、女子クラスが、桟敷作りを依頼した男子クラスの「接待」の準備に忙しい。
 秋の日が落ちるころ、青竹の光る桟敷に腰を下ろした子たちは、一様に満足そうな笑みをこぼしている。
 明日は体育祭なのだ。
 その体育祭当日、朝早く幟が桟敷毎に掲げられ、開会を待っているのだった。

 昼食後、仮装会が始まった。三年生各クラス20名以内の制約があるという。それぞれにテーマを持った趣向が楽しい。
 と、勢いよくくりだしたクラスがあった。コッコデショの演物である。鮮やかな色彩の太鼓山を40人近い揃いの法被が担ぎ、気合とともに空中に投げ上げ、はっしと片手で受ける。息の合った見事な演技であった。
 太鼓を叩いているのは、小児麻痺で普段は松葉杖をついているⅹ君であった。彼のはじけるような笑顔が何度も宙に舞った。
 はっと気付いた。彼らはⅹ君の最後の体育祭を飾ってやりたかったのだと。だから、規定を無視してクラス全員が参加したのだと。
 心やさしい男たち──三年七組。
 昭和32年、東高に赴任した私は、一年生を主体に二年、三年にも授業に行かされた。一種の穴埋めに使われたのであろう。
 三年生は七組だけ。しかも、漢文を週一時間。このクラスは漢文を初めて学ぶのだという。従って使われた教科書は一年生に用いる入門用。
 「時間つぶしじゃない。入試に間に合うように一年間で仕上げろ。」
 めちゃくちゃな要求をしたのは、本田一夫先生。
 泣きたかった。漢文の授業は初めてであった。さっそく入試問題集を三ケ年分あたって頻度の多い設問の統計をとった。(これは後々おおいに役立った。)後は当たって砕けろである。
   孔子と孟子が酒飲んで
   一杯機嫌でホラふいた
   でたらめなんか知るもんか
   嫌な漢文よ
 って歌がある──と授業を始めた。
 週一時間ではどんなに頑張っても限度がある。悪いがこの経験不足の未熟な教師に当たったのが運の尽きだと諦めてもらうほかない。私はそう思いはじめていた。
 しかし、このコッコデショを観て、──この心やさしい男たちを裏切ってはならぬ、俺にできる限りのことをしよう、──鳥肌を立てながら決意したのだった。
 最後の時間、卒業する君達に贈るぼくの最も好きな詩──を板書した。

      あるラブレターの全部的記録    宮沢賢治
   第一紙 僕は
   第二紙 僕は……
   第三紙 ぼ
   第四紙 ぼくはいったい
   第五紙 ばくはぜんたい
   第六紙 ぜんたいぼくは
   第七紙 あなたはきのふ
   第八紙 あなたは

 「いい詩だろ。ただし、ラブレターは心して書くこと。話しことばは出るとすぐ消えるけれど、書きことばは永遠に消えないから。」
 と、一年間の漢文授業を締めくくったのだった。

 最初に三年生の担任をしたのは、肺切手術をうけた後の14回生、三年四組だった。私の教師生活のなかで、そういう意味もあって、最も印象に残るクラスである。
 幟を見て驚いた。何とクラス全員の氏名が記されていた。
 記念にこの幟は私がいただいた。
 先年同窓会に持参したら、集まった教え子たちは、かつての桟敷を作り上げたときの笑顔に返っていた。
 いま、その氏名の中に、既に浄土に旅立った人もいて、できることならぼくと代わりたかったのに……と、寂しい。

 19回生、三年四組。
 本部席にゆくと、俵重秋校長に呼ばれた。
 「おい、あの幟は君んとこだろう。」
 幟に日く。
 ──校長・教頭をハゲ増す会──
 「君んとこでなきゃ、ああはゆかん。」
 俵先生は嬉しそうに笑っていらっしゃった。
 昼食後の職員競技。開始直前、俵先生は、
 「おい。」
 と、隣の教頭・島田清春先生の肱をつつかれた。
 お二人は連れ立って私のクラスの桟敷の前にお行きになった。そして、並んでおもむろに帽子を脱ぎ、深々と、それもかなり長く、薄くなった頭をお下げになった。
 どっと上がる歓声と拍手──。
 今年同窓会に招かれてこの話をしたら、y君が、実は……と、話した。
 最初はg君が、当時アヤシげな映画に活躍していた女優の名(y君は確かにその名を言ったのだが、そして、「先生は知らんでしょうね」と当然な顔をしたのだが、どうしても今思い出せない。)を上げ、彼女を励ます会にしたらと提案したのだという。それから論議の未に決定したのが「ハゲ増す会」だったのだそうである。
 y君の話にあちこちから注釈も加わって楽しい一時であった。

 21回生、三年十組。
 この年、応援歌の募集があった。20周年を記念してのことであったか。
 私は担任していた十組の「現国」の時間を2時間使って、その場で分けたグループで作詞をしてもらった。
 k君がリードしていたグループだったと思う、実に初々しい詞ができていた。私は無断でこの詞に手を入れ、我ながら傑作と思える詞にして、他のグループの作品とともに応募の手続きをとった。
 結果は次席。他の一作が三位。撰者の島内八郎氏の評に曰く。「詩としてみれば何といっても次席の作が傑出している。しかし、応援歌としてはやや弱いのではないか。」
 惜しかった。ならば「東高逍遙歌」として残せないか……とも思ったりした。
 今あの時の各グループの原稿を探してもない。何回もの引っ越しでどこかに紛れてしまったのであろう。
 t君は後に公認会計士になっただけあって、この応援歌二位と三位の賞金2500円?は何時ごろ貰えるかを何度も訊きにきた。学級委員として体育祭の費用捻出のためであった。幸いにして体育祭に間に合い、クラス全員意気揚々としていた。

 閑話休題、あの桟敷と幟は、どんな経緯を経て実施することになったのであろうか。『ひがし四十年』をめくっていると、松尾勝吉先生のエッセーにそれはあった。
 「そのきっかけは、第3回生のあるクラスが2年生の時、あっと言わせようと前夜ひそかに竹やぐらをつくったことに始まるという」とあり、「第5回から学校全体での『桟敷作り』が始まったという」とある。「という」とあるから、松尾先生も伝聞を基にしてお書きになったのであろう。
 当時、あんな破天荒とも思える体育祭は、日本のどこにもおそらくなかったであろう。クラスのまとまり、協力……教育効果も抜群のこの計画を立案実施した経緯はぜひ明らかにしておいてほしいと思う。
 歴史には具体的な証言こそが大切であろう。誰が最初に言い出したのか、どんな経緯を経て東の年中行事になったのか、制作法の考案者は誰か、等々『東風』などで明らかにしていただけないであろうか。
 ──いや待て。山口光太郎君のことだ。既に明らかにされているに違いない。知らぬのは私だけかも知れぬ。


 

 ついでである。幟のことばやデザインも集められないであろうか。誰かが写真に撮っているはずだから、年度毎の全学年・各クラスの幟の写真集が、クラス毎の簡単な補注とともに刊行できたら、その年その年の世相も反映されて面白かろう。
 ──いや、これは無理か。購読する人が何人いるか考えないと、高価になりすぎたり赤字になったりしてしまうわ……。

 「桟敷作り」──今は昔の物語になってしまった。後夜祭のファイヤー・ストームといい、周辺の人々に迷惑をかけながらも、あたたかく認められていたのは、東高がどんなに愛され、信頼されていたかを物語っていると言えよう。そういえば、北高に転任なさった後、本田一夫先生がしみじみと仰ったことばを思い出す。
 「東高を出てみて、はじめて東高の環境のすばらしさが分かったよ。環境──生徒、教師、父兄、それに地域の人々、全部含めてのね。大切にしなきゃね。」

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