仰げば尊しわが師の恩
鈴木 久
 2年前、3年間学年を担当して、卒業生(竜ヶ崎二高)全員の卒業証書の氏名を書いて送り出した卒業式が、 教職最後の卒業式と思い、それまで歌うことに抵抗のあった式歌「仰げば尊し」を思い切り歌ったこと を昨日のように思い出す。この3月1日の竹園高校の卒業式がほんとうに最後になって、あらためて"わが師の恩"を思った。
 私が大学を卒業した頃は就職がいたって困難な時代であった。当時 「荒地」同人の雑誌『詩学』に 投稿していた私は、郷里を遠くはなれることにな るが、藤村も勤めたことのある小諸高校からの誘いをよろこんでお受けした。職員会議でも紹介され、 下宿も決まり、後は身体と荷物を運ぶばかりになっ て、念のため小諸保健所でレントゲンを撮ることになったが、その一枚のフィルムが私の運命を大きく 変えることになった。兄は肺結核で戦病死している。帰りの列車の中で、絶望し、自殺を考え、ふらふ らとデッキに出た。列車が大きく揺れて自分を取り戻した。
 大学の西洋史教室の穂積重行教授が長崎の高校を紹介してくれた。東洋史の木村教授の恩師が校長を している長崎東高で是非にという話である。西洋史専攻のものが日本で研究するとしたら絶好の土地で はないか、身体にもよいことであるし、と強くすすめてくれた。そして、通常は大学保管となっている 卒業論文を返してくれて、さらに研究を深めてみよと励ましてくださった。
 老いた両親を残して東京から27時間、「オランダ坂に雨が降る」の長崎ということしか頭になか った私には、衝撃的な長崎の現実であった。下宿 は、長崎造船に学徒動員されていた子供さんをみんな原爆で失った家であった。遅れて赴任した私のた めにわざわざ開いてくれた歓迎会で、酒癖の悪い 教頭が、「流れ者」と私をからかった。すると、さっと私を温かく囲む先生たちがあった。
 何か月も経たないある日、穂積先生から手紙が届いた。九州大学で学会があるのでお茶の水大学のN 教授と長崎にまわるから会おうというものであった。その上、ついでにお前の学校で講演をやろうとお っしゃって下さった。
 穂積先生から長崎の宿へ呼びだしがかかった。まだ私のほうが長崎は知ってる、案内してやろうとい うお話、涙が出るほどうれしかった。原爆の影響を全く受けていない繁華街・浜町から思案橋、それか ら有名な遊郭「丸山」の中通りを先生の後ろにぴったりとついて、それこそ恐れおののいて歩いた。 売春防止法がつくられたのは昭和31年であるから、まだ赤線は「健在」であった。袖引き婆さんが さかんに声をかける。先生は悠然として笑いながら、ただの冷やしだけだよと言われたので、私はほっ と胸をなでおろした。
 過去をふりかえる時、決まってまず穂積先生の顔が浮かんで来る。この「わが師の恩」を私は決して 忘れない。大学を守るため学生とスクラムを組んでいる写真を『中央公論』に見出だした時、私は興奮 して手紙を書いた。大学がつくばに移っても、単位を落とした学生が卒業する最後まで大塚の大学を離 れなかった先生である。
 今思うに、教師としての私の原点は長崎と穂積先生にあったと言っていいかも知れない。
(1994.4.31)