私の長崎東高在職は、まだ原爆の爪痕も生々しい僅か5年間でした。それは教職40年の内のほんの一瞬なのに、私の人生を支えてきた大きな財産・絆になっています。そこには第8回生、9組の卒業生がおり、在京生がここ10年以上も毎年3Q会という集まりをもってくれています。
もう一つ、10回生石橋正敏君との新聞部からのつながりがあります。昨年9月、石橋君の奥さん、美香さんからドイツワインとともに彼の突然の訃報が届きました。何ということだ、私より10年も早く。すでに六月に他界、誰にも知らせるなというので、悩んでの末のことというものでした。手紙には「私のジャックは空のかなたへ行ってしまいました」と書いてありました。
赴任して3年ほどして、NHKはラジオドラマ「チボー家の人々」を流していました。その録音を生徒と聴いた経緯は「東高在京同窓会」のホームページに載せて貰っています。石橋君からの配慮ということでしたが、今思えば、その時にすでに彼は自分の死を予測してのことだったのかも知れません。そこで I 君となっている石橋君は運動会の前日、下宿に転がり込んできました。家の事や、進路の事で悩んでいて、夜通し話し込んだことがありました。それはジャックの悩みそのものでした。5歳の時亡くなった優しい母親のこと、頑固一徹の父親との衝突など、その後彼は家出をしました。自殺を頻りに口にしていた彼であったので必死で捜しました。
その後の石橋君の事はあまり知りません。彼との思い出では、私が郷里茨城に戻ってから、新聞部の連中と新宿御苑で会ったこと、15年前に上田市在の青木村の新居を訪れ、そして彼の死の半年前、一昨年秋、大手術の直後にもかかわらず、自慢のワインセラーや無言館、将軍塚などを案内して貰ったことなど。

今年5月、彼の一周忌を前に青木村を訪れ、書斎の彼のお骨に手を合わせました。「彼とはあまり話し合ったことはなかった」と美香さんには言いましたが、話し合わなくても通じ合えた「チボー家の人々」があったのです。美香さんの手紙にも「私のジャック」とあったことで明らかです。手術を前に彼からDVDプレーヤーとディスクが続いて送られてきました。「チボー家の人々」に続く「武器なき斗い」では、主役の下元勉をドイツに案内した話をきいていました。彼は私との思い出をまとめて続けざまに送ってきたのです。
私は改めてドイツ語を習い、彼の案内でドイツを歩くのが夢でした。しかし、ジャックは死にました。ジェニーを残して。原作では、ジャックが果たせなかった夢を彼女が抱いて力強く生きていくところで終わっています。