松尾勝吉先生からの便り
昭和37年に埼玉から転勤して来てほうと思ったのは生徒の行動がわりとスマートだと いうことでした。予想してなかったのに授業前に宿題を級長(?)が集めて職員室の僕 の机に持ってくるし、先生がお休みの授業で、廊下から通りすがりに見ると生徒の一人 が教壇に立って演習みたいなことをしているので恐れ入ったなあと思いました。確かに 東京教育大付属高ではそんな風景をたまに見ましたが、十年間の埼玉県立の二つの高校 では教師不在のクラスでそんな演習的な風景は考えられないことでした。また何かの予 行で生徒がのんびりしているので、当時は教務主任だった島田先生に「明日これで大丈 夫ですか」というと「大丈夫だよ。うちの生徒は本番ではきちっとやるから」とにこにこして答えられ、その全面的に生徒を信頼している教師の姿勢にも打たれたことを覚えています。
それは、私がくる前年かに南高が新設され、市内の普通高校が三つしかなく、今日のようななりふりかまわぬ受験勉強などしなくても自ずからエリート校であったこともありましょうが、その他にも長崎というおっとりした土地柄の、まだ戦前の旧家の躾で育った皆さんだったからでもあったのでしょう。たとえば昼食時に職員室に生徒が質問に来て「お食事中すみません」というので「君、そんな言葉誰に習ったの」と聞く「母からです」と答えた男子生徒の姿からも家庭の躾が感じられました。
先生にも生徒が何より好きだという方が多く、数学の金子先生などは口が悪くて「ほんにうちの生徒は五郎(先生の愛犬)よりあたまンワルカ」なんて大声で言いながら、質問の生徒には定時制の生徒が下校する九時頃までも職員室で向かい合いで静かに教えておられました。それは決して今日の特別受験指導などというのではありません。ただ学問と生徒が好きでしようがないという教師の姿でした。
私はこういう生徒と先生の中で半生を勉強させてもらった自分を幸福にも誇りにも感じていただけに、私自身が東高にお返しする何も残さぬうちに定年退職となった自分の無能さに今痛恨の思いです。十七回生の卒業アルバムに図々しくものせた自作の詩のあの流星群が今頃それぞれ八方に散って燦然と、またはひっそりと燃えているだろうなあと、この老いたる青年は独り窓辺の机で想いを遊ばせています。
皆さん、いつまでもあのころの自分たちの姿を世塵の中で見失いでください。
松尾先生を囲む17回生。ちなみに松尾先生のあだ名は『ぐにゃ』。
先生はこのあだ名に"愚若"の漢字をあて、自らお使いになられている。