葛城孝昭先生のマラソン紀行

マラソン、ウォーク、登山に元気に活動を続けられている葛城孝昭先生。国内はもとより海外遠征もされ、友好親善を深められています。 このページでは、そんな葛城先生のお元気な活動を紹介していきます。

1997年11月 葛城先生からのお便り

葛城先生写真
1997年5月、平成の遣唐使南路隊の一員として、
中国河南省函谷関にて

去年10月、初めてハーフマラソン(平戸大橋)を走り、2時間以上の長時間走ることができて、 自信を持ち、今年慶州マラソン、八月に五島列島夕焼けハーフマラソン、十月に平戸大橋を走りました。 それまでは、福岡シティマラソンや原城マラソンなど毎年走っていましたが、すべて5キロ、または10キロでした。 12月14日、いよいよホノルル・フルマラソンを走ります。海外マラソンは、平成7年シドニーマラソン(14キロ)、 8年ゴールドコースト(オーストラリア)10キロ以来です。

 ウォークは去年から始めて、四国縦断(鳴門から松山まで5日間で220キロ)、県内縦断 (平戸生月島から野母崎樺島まで)。今年は九州横断(臼杵から八代まで)、長崎街道(小倉から長崎まで220キロ)、 平成の遣唐使(中国洛陽から西安まで360キロ、10日間)を歩きました。長崎街道は毎月1回、 11月に佐賀まで来ました。12月7日、佐賀から武雄まで歩きます。

 登山は平成元年キナバル山(マレーシア、サバ州ボルネオ、4101米、東南アジア最高峰)、 平成5年キリマンジャロ山(アフリカ大陸最高峰、5895米)以後、外国の山はなし。専ら北アルプスばかりで、 八月に初めて白馬岳三山(白馬、杓子、白馬鑓)に登りました。来年はもう一度白馬岳に登り、北へ朝日岳、 白馬大池、栂池と、唐松岳、五竜岳を考えています。もう67歳(来年8月は68歳になっています)ですから、 登山は辛いです。


1997年4月20日 桜も、友情も満開  慶州マラソンを走る

桜真っ盛りの韓国の古都慶州で、97年4月20日、「`97慶州さくらマラソン大会」(ハーフ)を走りました。慶州は韓国読みで「キョンジュ」、釜山(プーサン)から北上した慶尚北道にあります。紀元676年朝鮮半島を統一した新羅は金城に都を置きました。それが現在の慶州です。日本で言えば古都奈良にあたるでしょうか。

 午前7時に「ホテル朝鮮」の前をフル・マラソンがスタートして30分後、ハーフと10キロ、5キロ組が一斉に走り出しました。私はハーフ組です。

 コースは韓国を代表する桜の名所・普門湖の周辺で、今を盛りと咲き誇る20万本の桜並木の道です。この桜は今から25年ほど前、当時の朴正煕(パクチョンヒ)大統領の命令によって植えられたもので、実に素晴らしい桜でした。スタートして約2キロほどは平坦な道でしたが、少し上りにさしかかった2.5キロの所で10キロ組の人たちが手を振って折り返しました。残るは私たちハーフ組だけです。道路に隙間ができて走り易くなりました。

 延々と続く満開の桜のトンネルを駆け抜け、遺跡が点在する古都を満喫しながら、途中の給水所で、韓国のボランティアの人たちが拍手で迎えてくれて「水飲んで元気出して」と日本語で励ましてくれました。対向車線を走るバスの窓から身を乗り出して「頑張れ」と声をかける韓国人たちや道を歩く韓国人のおばさんたちの声援に元気が出て快調に走りました。日本人は少なく殆どが韓国人のランナーでしたが、お互いに「ファイト、ファイト」と声を掛け励まし合って走りました。満開の桜並木の下、育まれた友情が一際大きな花を咲かせたような気がしました。

 17キロを過ぎた辺りで上り坂となり、疲れも出て少しペースが落ちましたが、追い抜いて行くランナーから励まされ元気を取戻して走り続けました。こうしてやっとの思いでゴールすることができました。タイムは2時間6分35秒でマラソン選手の半分のスピードです。しかし昨年十月に走った平戸大橋ハーフマラソンのタイムを12分縮める自己新だったのは嬉しいことでした。有森裕子さんではないが、「自分を褒めてやりたい」と思いました。着順カードをくれなかったので順位は正確にはわかりませんが、ハーフは400人位完走して私の後ろに50人ほどいたと思います。成績はともかくとして、この大会は四年前から日韓親善を目的にして開催されているもので、私は韓国や中国、台湾、日本からの参加者4コース全部で1048人の中に混じって走り、友好親善を深めることができたことを喜んでいます。

 自分の足で21.0975キロを完走してゴールできたうれしさと成就感は、何ものにも換えられません。マラソンはとても苦しいだけに、ゴールした時の嬉しさは格別です。走っている時、苦しくなって「何故こんな辛いことをするんだろう。走らなければよかった」と後悔します。しかし走っているうちに楽しくなり、身体の中から喜びが湧いて来るのです。


1997年12月14日 ホノルルマラソンを走って

 1997年12月14日(日)朝まだ暗い5時、スタート拠点のアラモアナ公園に早朝の静けさはない。スタートを今か今かと待つ人々の興奮と熱気にあふれる。大砲の轟音と打ち上げ花火の合図で第25回記念ホノルルマラソンがスタートした。33,655人のランナーに混じって私は「完走できるかな」と緊張と不安が胸をよぎる。しかし、周りのランナーの歓声にかき消されて、ゆっくりと走り始めた。なあんだ、みんな私と同じ初マラソン、よーし、頑張るぞ。

 ダウンタウンのメインストリートのクリスマス・イルミネーションがとてもきれいだ。7キロを過ぎ、ギャラリーの声援と笑顔が飛び交うカラカウア大通りを走り抜けるとホノルルで最も賑やかなワイキキのホテル、ビル街。早朝にもかかわらず、大勢の人々が応援してくれるのが嬉しい。11キロからダイヤモンド・ヘッドへ向かう上り坂が始まった。先は長い、ゆっくり上ろう。

 ダイヤモンド・ヘッドは標高232メートル、頂上に直径約1.2キロの火口を持ち、その姿が優雅で美しいことで有名な山である。坂はほぼ1キロ続いた。右手に広がる朝日に輝く海は思わず立ち止まってしまいたくなるほど。緊張も少しほぐれた頃ハイウエイにさしかかる。すっかり夜が明けてすがすがしい気分になり、ひたすら走る。中間点で時計に目をやると2時間23分、予定通りだ。これから先は未知の体験、さあ頑張るぞ。

 ハワイ・カイで折り返す。住宅も割と少ない閑静な所、家族揃って応援してくれるのがとても励みになった。ハイウエイの帰りは海風が体を通り抜け、走る快感を味わう。前半を押さえたのであまり疲れは感じない。快調。35キロで高速道路を降り、瀟洒な邸宅が立ち並ぶ間を抜け、再び帰りのダイヤモンド・ヘッドのゆるやかな坂をゆっくり登る。

 終盤最大の難所を最後の力をふり絞って登り切ると40キロの表示。やったあ。海が一段と美しく見える。登りから下りへのギアのチェンジは慎重にと言い聞かせ、フィニッシュのポーズを考えながらゆっくり下る。疲れた足が痙攣を起こしたらおしまいだ。ゴールのカピオラニ公園に入り、最後の直線コース500メートル、両側のギャラリーの大声援を受けて栄光のフィニッシュ。自分の体をめいっぱい使って、肉体的困難と苦痛を耐えて長時間走りきった喜びと感動に頬を濡らしながら、両手を大きく広げてフィニッシュ・ラインに飛び込んだ。5時間25分であった。(完走者26,467人中、14,075位)

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