壮春は帰らず

ウイーン、プラハ、ブタペストを旅して

安野均子


 聖ヴィート教会のステンドグラスには目を奪われた。光をちりばめた細かい細工、安らぎのある聖母マリアを彩る落ち着きのある色彩、光の壁画に描かれたキリストの使徒たち。歴代の王様たちの墓に開かれた窓という窓が、聖なる物語で装飾されていて、幻想に満ちた色彩である。天に扉を開いたステンドグラスには、王様たちへの神の栄光が永遠のものであるようにとの、プラハの人々の願いが込められているように思えた。

 プラハ城の建築造形の中心ともなっている聖ヴィート教会ははじめヴァーツラフ一世(921〜929)によって建てられた。彼はボヘミア王国にまつわる伝説が神を恐れる人々の間に広まり、近世に至るまで王に対する国民の敬愛は深くなり、今日ヴァーツラフ広場としても名をとどめている。
 聖ヴィート教会を現在あるゴシック様式の教会として建設したのは、ボヘミア王国の全盛期を築き上げたカレル四世である。彼の治世(1346〜1378)下で、ほぼ現在のプラハの市街が形作られたという。

町並み  ハンガリー王国の起源に溯るにはブタペストの英雄広場である。先祖が騎馬民族であったことを物語るかのように多くの騎馬像を従えて、中心には高い塔の天使に守られたアールパードの像が建つが、彼は九世紀終わり、十の騎馬部族の総指揮官として、現在のハンガリーの地を征服してハンガリー王国の礎を作った。
 そのアールパード王朝の初代の王イシュットバーン一世はアールパードの孫にあたり、彼が997年にハンガリー王国を建国し、初代の王となった。建国初期のこれらの英雄たちに劣らず国民の深い敬愛を受けている一人に、マーチャーシ王がある。十五世紀彼は国力を増大してボヘミア王をも兼ねたばかりか、ウィーンにまで進出して、ハンガリー王国の黄金時代を築いた。この広場に建つ英雄や歴代の王様たちの躍動的な数々の銅像が持つ威厳と迫力は、彼らを民族の父としてハンガリー国民が敬慕、敬愛していることを示してなお余りある。

 ゴシック様式建築(13世紀〜15世紀)という点では、ウイーンの聖シュテファン寺院の存在感に及ぶものは見られないように思えた。この様式特有の天を突く尖塔のある寺院に一歩足を踏み入れたときの、体に降り注ぐ厳粛さは例えようもない。幸運にも日曜日の朝のミサがちょうど執り行われていたのである。
 遠い距離にある内陣の祭壇で儀式を進める司教の声が寺院内にこだまして響き、澄んだ空間が私にはこの上なく心地よい。観光客の出入りが激しく雑踏が後方部に少し渦巻いてはいるが、シーンとした霧が立ちこめ、ゴシックの高い天井が何もかも見透かしているかのように雑踏を呑み込み、かえって静寂である。あちこちの壁画に設けられてある祭壇に向かって黙想する人々に混じって、私も頭を垂れて、敬虔なひとときを過ごすことができた。

 日本ではあまり見かけないが他国を訪ねると、寺院で祈りを捧げる多くの人に出くわす。その場にひざまずき、地面にひれ伏して神に祈る人々である。彼らにとって祈りは日常的であり、常に人は神と共にある。祈りは生活であると同時に哲学でもあり、神に向かい会うことで、自分を取り戻すこともできる。

教会  今回の旅で私は東欧の史跡の宝庫の扉をそっと開けてみた。観光の起点となったブタペストの目抜き通りに、千年の歴史を持つ中世の建造物が現代に生きて街並みを形作っている有様に、目からうろこが落ちる思いがした。ゴシック様式、バロック様式(17世紀〜18世紀)はもちろんのこと中世以降のあらゆる様式の建築物が混じり合って、プラハの街の景観は出来上がっており、歴史のパノラマに目を疑い、感動した。
 十六世紀ボヘミアやハンガリーがハプスブルグ王朝の支配下に入ってから、街にはバロック建築が多く建てられ、建築のバロック化が進んだ。聖ミクラーシュ教会などはその典型であるが、異民族支配下の文化を排斥して破壊することなく、一度造ったら永遠というローマ帝国以来の伝統の下に、先人の遺産を守る謙虚な心が、これらの都市の今日を作り上げる力になっていると感じた。

 チェコもハンガリーも現代史の中で、ソ連の政治、経済体制に組み込まれて、国民生活の不自由さや、貧しさを余儀なくされてきた。民主化を勝ち取るまでの苦しみの時間、歴史を経ているだけに外観的にはうす汚れた、住環境としてあまり近代化されているとは思えないアパートに暮らす人々の心を支えてきたものは、個人の信仰や信念、またそれらに基づく誇りや自信であったのではなかろうかと、ブタペスト市街の広い通りをゆったり流れる人々の足取りを眺めながら考えた。

 王宮をはじめとするおびただしいハプスブルグ王朝の遺産が今も呼吸し、その王家の伝統がそのまま受け継がれている香り高いウイーンをはじめ三都市ともに、心は残してきたままである。
 史跡の数々をたずねてこれらの都市をもう一度じっくり自分の足で歩いてみたい。日本でオペラを見るくらいなら、本場オペラ座で酔いしれるためにひと思いにウイーンに飛んでみたい。せめてもう一度あのカフェで、おいしいケーキに気ままな時を過ごしてみたい。これらを夢で終わらせないように願ってやまない。

 ただしかし、友情を温め、深め、笑い、語って、四十歳年をとったに過ぎない我々高校生三十五人で共有した一週間の時間は、再び体験することのできない貴重なものとなった。


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