小さな旅、蕨宿の世界

2015−05−14

新緑映える清々しい風の中を、自然と歴史と文化にふれながら日本一小さな市・蕨を歩いてみましょう!

蕨市は埼玉県の南部に位置し、海抜4〜6m程の低地に形成されています。
中世・室町期には蕨城が築かれ、渋川氏の治める所となり、近世の初めには、中山道・蕨宿が置かれ宿場町として栄えました。

また、江戸時代の終わり頃に、塚越村で始められた綿織物業は蕨の地場産業に発展しました。
明治22年(1889)には蕨宿と塚越村が合併して蕨町となり、昭和34年(1959)に市制が施行されました。
平成21年(2009)に50周年を迎えました。市域面積は5.11平方キロメートルと全国一のミニ市で、人口密度(14150人/平方キロメートル)が全国で最も高い市として知られています。

本日の行程
(1)JR京浜東北線蕨駅(みどりの窓口)10時集合
(2)蕨駅西口ロータリー出発
(3)三学院(真言宗・智山派)
(4)はね橋(徳丸家)
(5)昼食調達(スーパーマーケット・マルエツ)
(6)昼食・休憩・トイレ(予定地を変更し、マルエツ内のイートインコーナーにて昼食)
(7)北町交番・ふれあい広場
(8)蕨本陣跡
(9)蕨市立歴史民俗資料館
(10)歴史民俗資料館分館
(11)中山道道路元標
(12)蕨城址公園(成年式発祥記念像・「青春」の石碑・ニュートンのリンゴの木)
(13)和楽備神社
(14)反省会ー松祥

参加者 :
   有馬・平野・林・近藤・中島
   三谷・高本・小原・城戸・本多・原田・呉・松尾

                             松尾 徹  記





 さむらい会の旗を持つ本多くん(中央)〜三重塔と本堂をバックにして〜
三学院・・・ 長徳4年(998)の創建と伝えられる真言宗・智山派の寺院で山号を金亀山(こんきさん)、寺号を極楽寺と称し、院号が三学院である。御本尊は十一面観音菩薩(一木造で平安時代後期の造立)。2010年に新装なった阿弥陀堂はまだ木の香りが漂い、見事な彫刻が施されている鐘楼と三重塔は見応えがある。







 本堂の扁額を見上げる
扁額は「戒定慧」と書いてある。即ち「戒学」「定学」「慧学」は仏道を学ぶ者の必須事項で、これを院号とした。






六角堂
「西遊記」のモデルといわれる玄三法師 のお骨が分骨され、納められています。







 三学院の山門
山門をくぐったら右手の地蔵堂にある地蔵尊は、元禄7年(1694)に三学院の住職であった秀ばん(しゅうばん)が中心となり造立された高さ約2.4mの石造立像仏です。火伏・子育・開運を願う人々に、現在も信仰されており、
毎月四の日には、地蔵の縁日が開かれています。
 *** ( 秀ばん・・・?環境依存文字につきPCによっては漢字が表現できません。悪しからず )





   

昼食タイム
スーパーマーケット・マルエツのイートインコーナー。予定していた北五公園(下地は芝生でなく砂地で、東屋はあるものの、木々も少なく、日陰が少ない)を避けて、30度を超す夏日の陽差しを逃れた。 







 中山道の石柱(原田・小原・近藤・中島の美男美女)
蕨宿上の木戸。蕨宿は中山道の宿(江戸、板橋より二番目)として慶長17年(1612)頃に成立したといわれています。







 中山道ふれあい広場
中山道についての説明板を読む。手前の平野さんが見上げているのは定時に時を刻む「からくり時計」。







ふれあい広場の壁画
モザイクタイルを使っての往時の中山道の様子 







 蕨本陣跡
本日の案内役(松尾)と近藤さん。本陣は公家や参勤交代の諸大名などが休泊するところで、蕨宿には本陣(2軒)、脇本陣(1軒)があった。石柱には「江戸江五里、京江百三十里」としるしてある。
代々岡田嘉兵衛を襲名、名主も兼務。ご子孫が「本陣」のモニュメントを復元。
江戸参府の大名が当地に到着した際に荒川が増水し、「川止め」になると、日程を調整して江戸に向かっていた大名がかち合うこともあり、後から到着した大名が格式が高いと小大名は二の本陣か脇本陣に移らざるを得なかった。







中山道蕨宿模型(縮尺200分の1)
蕨市立歴史民俗資料館の常設展示室
蕨宿は町並みが南北10町(約1,090m)で、周囲は用水堀で囲まれていた。本陣、脇本陣、問屋場、旅籠屋などが軒をつらねる町場(町方)とその外側の農村部(村方・在方)とで構成されていた。
江戸後期、天保14年(1843)の調査では、高1,419石、宿内の人口2,223 人、家数420戸で、町場には約1,300人が住んでいた。







 うなぎ 今井
玄関の看板には「蕨宿 今井の深き江戸の味 生(せい)を養い気をも養う」とある。
創業年は明示されてはいないが、かなり古く、今井のうなぎは美味である。







 歴史民俗資料館分館の庭
分館は蕨市長を2期務め、埼玉県深谷市出身財界人渋沢栄一の研究家でもあった故・金子吉衛邸をそのまま利用したものです。
金子家は織物の買継商(工場から単純に仕入れるのではなく、デザインなどを作成して発注し、買い取った上で小売商と売買)をしていた。建物は木造平屋寄棟造りで、中山道に面した店の部分は明治20年(1887)に作られたものです。







 中山道道路元標
中山道の歩道に設置された方位磐である。酉が京、卯が江戸方面で、この方位磐の右横に明治末期に作られた小さな石柱の道路元標が移設されて、往時を偲ばせていた。







 旗手・本多英一郎くん(蕨城址公園の入り口)
一日ご苦労様でした。
蕨城址公園は、昭和49年(1974)に市制15周年記念事業として市民会館と共に建設された。
室町時代になると渋川氏が蕨城を築いたが、大永4年(1524)に北条氏綱により攻められ落城した。
江戸時代になると家康が城跡に御殿を置き、鷹狩りの際の休み所として使用したといわれる。







 蕨城址碑前の緑陰で寛ぐ
公園内には終戦の翌年昭和21年11月前途有望なる若者を励ます為、全国に先駆けて当時の青年団長高橋庄次郎が発案して発足した「成年式」の記念像が建立されている。昭和23年7月国民の祝日と決定し「成人式」と称した。そして見落とせない「青春の碑」(平成5年4月建立)がある。
サミュエル・ウルマン(1840年ドイツ ヘヒンゲン生まれ)原詩、岡田義夫(明治24年蕨町生まれ。父岡田健次郎は明治39年(1906)から昭和15年(1940)の34年間町長を務めた)翻訳。
「YOUTH is not a time of life - it is a state of mind 青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様を言うのだ」
の一文から始まる。案内役(松尾)は平成6年(1994)7月、この詩に出合い心を打たれ、いたく感動した。







 要害通り
石碑には防止(ふせぎどめ)と彫られてある。   防止 ここ蕨城防護の要衛
昭和42年8月 渋川公400年祭にあたり建立。
カッパのモニュメントは近くの小学校の生徒たちの制作である。







 大衆酒場 松祥
本日の反省会会場。5名の方が都合により欠席、8名にて開催。
蕨の知られざる今昔の風情を楽しませてもらったとの声が多くあり、案内して良かったと松尾は思った。





写真撮影 : 呉      写真説明 : 松尾