八王子・滝山城跡ハイキング

 2013−03−14

 




春まだ浅き3月、”陽春たなびく”とは言い難くともまずまずの春の一日のこの日、東京西郊八王子の街の北方に位置する中世の山城、標高160mの「滝山城跡」へ昔(今も)の仲間11名(城跡案内人3名)と出かけたときの楽しいハイキングのリポートです。企画・担当は八王子在住の城戸くん。

この「滝山城跡」について
この城は多摩川と秋川が合流する急流が北側に流れて、これを見下ろす断崖の上に築かれている石垣も天守閣もない戦国時代の典型的な山城です。
その歴史は古く1521年武蔵国の守護代大石定重の手になる築城で、次いで関東一円を領し本拠を小田原に置いて1546年関東を制覇した小田原北条家が自らの本拠の一つとすべく拡張・改修・所有し鉢形城とともに北の重要拠点城としたものでした。
城の北側は二つの河川の浸食を受けて急峻な崖を形成した天然の守りで固めて搦め手口とし、南側はこれも自然の複雑な地形を巧みに生かして多数の郭(馬出)や曲輪で構成し守りを堅くし、城内に大きな池を二つと井戸水も確保して籠城戦にも耐え得る所謂「中世城郭」と呼ばれる強固な構えの城でした。

この城の立地は古甲州道、鎌倉道、古河越道が交差する交通の要衝で、河川の水運をも抑え渡河点も監視できる守りに堅く移動も容易な重要な位置にありました。

この城の戦国時代の攻防戦について
守るは小田原北条家
攻め手の第一陣は越後の上杉謙信が1552年に、次いで甲斐の武田信玄が1569年に侵攻してき、武田勢2万の猛攻を北条側は2千の兵でよく持ちこたえてのち以後武田勢に備えるため新しく築いた八王子城に移る。

そして1590年秀吉の命で関東に入った家康などの連合軍(東北の伊達軍も参戦)との持久戦に破れ本拠の小田原城そして八王子城、滝山城なども落城し小田原北条氏は5代90年で終息する。
そして秀吉の時代となるがその死後の1600年9月15日関ヶ原の戦いと大阪城攻防を経て徳川の世となる。

滝山城を居城とした大久保石見守長安の異才ぶり
徳川の時代となり家康にその才腕を買われて深い結びつきをもつ大久保石見守長安がこの滝山城を居城とし家康の側近としてその活動範囲を財政面、産業面、都市建設、築城、道路建設、道路交通面など多面的に徳川の初期、奉行の筆頭(総奉行)として天下の惣代官として特に関ヶ原以降、関東、甲斐、信濃、佐渡、石見、越後、大和を次々と掌握し、かっての一介の地方役人から幕府加判の列にまで加わり家康・秀忠の側近勢力の一翼として幕府の枢軸として参与する身となる。

1611年徳川・豊臣両家の和平のための家康・秀頼の京都二条城での対面の場で彼、長安は本田正純・板倉勝重とともに秀頼から破格のねぎらいを受けた。
権力者の庇護のもとの側近勢力の一翼、長安の急速なる地位の向上は彼の際立つ才覚によるところ大だが好事魔多し。彼の専横に対する反動がその死後訪れることになる。極めて多彩な生涯であっただけに惜しまれる。

関東最大の規模を誇った滝山城址はその威容を今もとどめていて本丸二の丸三の丸の跡、引き橋、空堀、古井戸などが現在も残されています。

滝山城千畳敷の広場は「一目7千本」と言われるほど櫻の木が多く、間もなく満開の櫻の季節を迎えて市民の憩いの場になることでしょう。

つわものどもが夢のあと今は、はるか!

参加者 (11名)
有馬・近藤・中島・林・城戸・葛野・呉・高本・西田・三田村 のみなさんと草野(記)でした。

                         






滝山城跡の説明版の前にて
前列中央は説明版の作図をした滝山城跡群・自然と歴史を守る会の田中さん






北の方向の眺望の説明に聞き入る






熱のこもった説明が続く





今も水量豊かな城内の古井戸を囲んで





北の方向に見える二つの河川、多摩川と秋川を望む





多摩川・秋川が眼下に見える絶景の地を背に
みどりの帽子は滝山城跡群・自然と歴史を守る会のボランテイアガイドのみなさん






二つ目の楽しみの場です





写真 : 呉