原爆被爆証言のページ

「あの日」から五十年  ----だれかに話しておきたい----

旧制長崎中学卒(長中59回卒) 宮田 修二(1995年11月7日証言)

(1) 昭和十九年 学都報国隊で幸町工場へ
 昭和十九年六月、中学四年の私は学徒報国隊として動員され、三菱重工幸町機械工場へ配属された。最初のころは、初めて見る大型機械類や仕事にも興味をもち、そのうち、新しい小型旋盤を受け持つようになってなお一層真黒になって働いた。
 支給された作業服は油で黒光りしていた。勤務はたしか朝七時から昼二時までと、二時から夜九時までの二交替制であった。工場へは飽の浦の自宅から歩いて稲佐橋を渡っての往復である。昼勤の時は 朝暗い中に家を出、夜勤の時は暗い夜道を歩いて帰宅していた。
  昭和二十年に入ってわれわれの一部は戸町のトンネル工場へ移動したが、私の機械は一日も休めないということで残された。そのころ、全国各地で空爆による被害ニュースが相次いだが、街中では「長崎はお諏訪さんの白蛇が護ってくれるので大丈夫」との噂が流れていた。
 ところが、七月二十五日ごろからたびたび米軍の中型機b24、b25が来襲して来た。
 初めのうちは浦上川の川縁の防空壕に退避していたが、そのうち図太くなり、外へ出ては空を仰ぎ、敵機から落ちて来るネズミの糞のような爆弾を眺めていた。
 そして構わず機械へ戻り、仕事を続けた。しかし余りにも次々と空襲警報が鳴ると「どうなるのだろうか」との異様な感じをひしひしと持つようになった。が、これは誰にも言えない当時の禁句であった。

(2) 昭和二十年八月九日昼 南髙来郡山田村舟津(現吾妻町)植木さん宅
 姉と二人、八月八日から買い出しに来ていた。原爆投下直後、植木さん初め近所の人達と戸外に寄り合って真暗になったキノコ雲の方角へ目をやった。
 昼というのに夕闇、いや夜の光景のようだった。「何じゃろか。どこじゃろか」「大村ん方ばい」「いや、あっちは長崎ぞ!」。一瞬、私は心臓が止まる思いだった。「すぐ長崎へ帰ろう!」。
 私と姉は植木さんへのあいさつもそこそこにリュックを背負い、山田駅から島原鉄道に乗り諫早駅へ向かった。

(3) 八月九日夜 諫早駅前ベンチで夜明し
 真暗闇の地獄であった。「佐世保海軍病院満杯!」「川棚海軍病院も大村陸軍病院も一杯!」とのメガホンの声が飛び交っていた。隣りの人がタバコの火をつけた。
 ほのかな光、憲兵が飛んで来た。チラッと見たら蜂蜜のようなものが頬から顎に垂れ下っている。顔は紫色だった。憲兵は叩き切れなかった。まんじりともせずベンチで夜を明かした。

(4) 八月十日午前六時ごろ
 汽車が動くとのことで飛び乗った。鈴成りの超満員。窓ガラスを叩き割る人、屋根に這う人もいた。トロトロと動く汽車の窓から見えたのは、蟻の行列のようだった。
 皆裸足、中には手足の欠けた人、顔が見分けられない人もいた。ただ黙々と歩いていた。
 諫早駅を出発して長与駅を過ぎる所まで、行列の切れ目はなかった。
 「原子爆弾」ということばを知らなかった私は「これは何だろう。俺はどうすればよいのか」と自問自答しながら汽車が止まるのを待った。

(5) 八月十日午前八時ごろ
 長与駅を過ぎた所で汽車が止まった。その先は行けないという。
 皆汽車を降りてひたすら長崎へ向けて歩き出した。鉄道線路を逆に歩いて来る人もいた。
 「長崎はどうですか?飽の浦はどうですか?」と尋ねたら「何も無い。行っても無駄!」の返事。
 途端に同行の姉が泣き出した。「また島原へ戻って植木さんのお世話になろう。」
 私は「とにかく家族の骨を拾ってから、とりあえず飽の浦へ帰ろう。」と突進した。

(6) 八月十日午前九時ごろ 長崎市大橋町、大橋の袂で
 線路伝いに大橋へ来た時、米軍機が空を舞った。逃げかくれる場所もない。
 旋回する米軍機から白いものが小雪のように舞い降りて来た。
 地に落ちた小さな紙片を拾って見た。宣伝ビラだ。「日本国民に告ぐ! 即刻都市より待避せよ」「天皇陛下に請願して降伏せよ。米国はb29二千機が搭載する爆弾に匹敵する新型爆弾を発明した。」と書いてあった。ポケットに入れようとしたら、そばにいる人が「憲兵が来るよ。拾うたら駄目!」と大声で言ったのでその場に投げ捨てた。しかし強烈な文句は今でも覚えている。
 (昭和六十二年十一月二十七日の新聞に、この宣伝ビラが原爆投下前に撒かれたのか、投下後にまかれたのか、その前後によって案内板の書き方があるとの記事が出た。
 私は即刻秋月辰一郎先生に電話を入れた。先生は内田伯さんに連絡して下さいと言われた。
 内田さんを尋ねたが、その後、会議に出席された委員の皆さんによる客観的結論で「投下後」となったらしく、生き辞引の私の言葉は役に立たなかったらしい。)

(7) 八月十日午前九時から午後四時まで
 宣伝ビラを見て興奮した私は姉を引張って松山町の原爆中心地を通過した。
 すでに死体を焼いている光景もあった。電車の乗客が車内で折り重なって山のように死んでいる姿も見た。どこの誰かも判らない真黒の焼死体だった。松山町から浜口町方面へ歩いて竹岩橋(あるいはやなばし?)を渡って浦上川へ出た。川の両岸は水を求めて逝くなった人達の死体で埋まっていた。突然「水を下さい!」と足を引張られた。息も絶えだえの女の人だ。
 姉が「可哀相か、早う水をのませんば」と言って川へ降りて行った。稲佐橋近くへ来た時、空襲警報が鳴った。あわてて稲佐の山へ向けて走った。しかし敵機は来ない。
 空襲警報!また空襲警報! 解除のサイレンはついに一回も鳴らなかった。
 混乱のるつぼであつた。稲佐の悟真寺から江の浦へ降り、海岸伝いに飽の浦へ辿り着いたのが午後四時ごろだった。自宅は波状の爆風で天井に穴が明いていた。家族は皆、山の防空壕に避難して留守だった。山の防空壕で家族と面会した時、初めて現実に戻った。
 (昭和二十年三月二十六日、満十六歳の誕生日に、動員先の三菱重工幸町機械工場で、「動員学徒の模範たり----]との表彰状を戴いた。表彰状は三菱史料館へ寄贈し、現在展示されている。仕事の都合でのびのびとなったが、八月七日から八日まで二日間の有給休暇はその褒美であった。しかし、姉と二人島原へ買い出しに行くため八月七日朝長崎駅の切符売場に並んだが、五、六人先で当日の割当切符が札止めとなり、やむなく翌八日に繰り越し乗車となった。
 不思議な因縁である。もし予定通りであったなら、九日は幸町工場で被爆していたはずだ。
 工場で亡くなったり負傷したりしたあの人、この人のことを想うと今でも胸が痛い。)

(8) 原爆症について
 私の身の回りに白血病で死んでいった人が二人いる。
 一人は縁戚で、町内の人を探しに行って白血病となり早く亡くなった。もう一人は私の友人で、五島から諫早農学校の友人を探しに出て来て白血病となり、原爆病院で亡くなった。
 二人とも原爆投下後何日も経ってからのことで、同じ二次放射能を浴びながら私が元気でおること自体、不思議なのかも知れない。

(9) 私自身のこ
 昭和二十九年夏、私は急性肝炎で三菱病院に入院。四十日で退院した。入院中、睾丸が真白に化膿した。担当医にも、看護婦にも言わず、毎日ひとりトイレでチリ紙で拭き取るだけ。
 しかし、退院と同時に綺麗になり、その後結婚して子どもも三人生まれたが、妻、子、孫まで異常なく健康である。入院中に白血球が正常に戻ったのだろうか。

(10) 最後に
 誰かに話しておきたい。どこかに遺しておきたい。五十年間の私の鬱憤がこれで晴れます。
 昭和二十年当時の日本の銃後を支えた少年の五十年の追悼記です。