ある日一人の患者が収容されてきた。見るともなしに付添いの人を見ると、県立高女の恩師であった。
「西田先生、どうなさったのですか」
私は思わず大声を上げていた。
「おお、池内(私の旧姓)君か。君がここにいてくれるとは……、地獄で仏だ」
聞けば、長男(中学生)が駅の付近で被爆して両足に大火傷をしたとのこと。第4度の火傷で、局所症状、全身症状ともに重症で予断を許さぬ状態であった。先生と娘さんが付きっ切りで看病された。先生のお宅は城山町にあったので、先生と娘さんと長男さん以外は全員即死だったという。
息子さんの症状がやや好転しかけたとき、それまでは何事もなく元気に看病していたお姉さんが全身倦怠を訴えはじめた。連日の看病疲れかと思われたが、そのうち、皮膚や粘膜に出血斑が現れ発熱―――明らかに原爆症状である。やがて髪の毛が抜けはじめ、歯茎から出血し、下痢、嘔吐を伴うようになった。熱40度を越し、しきりにうわ言を言うようになった。すぐにリンゲル注射を始めたけれど、1本の注射が終わらないうちに亡くなってしまった。健康人と少しも変わらぬ元気さで弟の看病をまめまめしくしていたのに―――と思うと、原爆症の怖さが身に沁みた。
姉の命をもらった弟は、後日脚の手術をして健康を回復、高校教師となり、今は退職して元気に過ごされている。
私たちの看た患者は誰一人として同じ症状の人はいなかった。被爆の状況によるものと思われた。治療法も分からず、薬も多くはなかった。ただ、その人の生命力に頼る他ない状況であった。
「看護婦さん、耳のなかに虫の入っとるごと、ゴソゴソするとですばってん、ちょっと見てくれんですか」
と、訴える患者。側頭部裂傷の患者である。さっそく、ぐるぐる巻きにしている包帯をほどいてみると、耳のなかは蛆虫でいっぱい。しかも耳の外まで溢れ、傷口の膿を腹いっぱい吸ってコロコロ肥えた蛆がうごめいている。竹の急造ピンセットで蛆退治を始める。なかには、しっかり患者の皮膚にまで食い込んでなかなか取れないしぶとい奴もいる。汗だくで蛆取りをしていると、私の横で突然どたりと物が倒れる音がした。何事かと見るとアシスタントの1年生が、湯飲みにたまった蛆虫を見て貧血を起こしていたのである。
敗戦の年は天候も異常で、真夏だというのにまるで梅雨のように毎日雨が降った。看護婦宿舎も雨漏りがひどくて、夜中に寝床をあっちこっちと移動させたものである。台風にも度々見舞われた。枕崎台風もたしかこの年ではなかったかと思う。
ある晩のこと、別棟の病室に入院中の患者が、原爆のショックでか、予定日よりずいぶん早く産気づいた。さあ大変、この晩の当直に産科経験の看護婦がいなかったのである。宿舎へ婦長を呼びに行き、産婦を励ましながらこれからの手順を考える。幸い牟田看護婦の母上が経専から程遠くない馬町で産婆を開業しておられるのを思い出し、夜中にもかかわらず呼びに走ってもらった。
召集されて来ている衛生兵(もうずいぶん年配の方であった)は、ただオロオロするばかり。「早くお湯を沸かして」と誰かの指示でお湯を沸かしてくれたのはいいが、シンメルブッシュという注射器やピンセット、鋏等を消毒する容器に沸かしていたのだった。焼け石に水である。経専の炊事場に走り、ともかくも産湯の準備を終わった。
駆けつけて下さった牟田さまや婦長の手によって、無事女の赤ちゃんの産声を聞いた時は、みんなで歓声を上げた。衛生兵の小父さんも涙を流していた。
古いシーツでおむつを作ったり、乏しい自分の衣料を提供したり、市内に実家や親戚のある者は貰いに行ったり、私たちは夢中になっていた。
お婆さんが孫娘を連れて外来に来た。
「学校でケツマクエンと言われ、医者にかかるごとって言われたと孫が言います。ばってん、家は百姓で忙しゅうして医者に連れて行く暇のなかとですもんね。ゆんべ、こいば連れていっしょに風呂に入ったとです。よーっと見てみたばってん尻はどーもなかったですよ。ケツマクエンってどげん病気でしょうか」
心配顔のお婆さんに、平川中尉がわかりやすく説明した。
「ひぇーっ、ケツマクエンて目ん玉の病気ですか」
お婆さんのびっくりした大声に、物静かな平川中尉も苦笑していた。その時はやっと笑い声を我慢できたものの、宿舎へ帰りみんなに話して大笑いした。
薄暗い農家の風呂場で、かわいくてたまらない孫の裸をあちらこちら撫で回しながら調べているお婆さんを思い、「孫ってそんなにかわいいものなのか」と皆で話し合ったけれど、いま、3人の孫娘を持つ私には、その時のお婆さんの心情は痛いほど分かる。
往診に行った。大学生の息子が被爆し、火傷や裂傷で床に臥しており、外来まで行けないので―――との母親の願いを気軽に受け入れて、平川中尉は往診し治療した。それから毎日包帯交換に行った。若い力で目に見えて症状が好転してゆく。
「看護婦さん、毎日ありがとうございます。あの子も素人の私が見てもずいぶん良くなりました。おかげさまです。これは家庭菜園でとれたものです。出来が悪いかもしれませんが皆さんで召し上がって下さい」
母親はもぎたてのトマト、キュウリ、ナス、カボチャなどたくさん持たせるのだった。おかげで、看護婦宿舎の台所が潤い、ありがたかった。
この患者は、数年後私が長崎東高校の養護教諭として勤務したときの社会料教諭石田明先生(後に県立女子短大学長)の弟であった。不思議な縁を感じた。
何時だったか確かな日時は覚えていないが、宮内省から陛下の御名代として侍従の方が「原爆救護の現状視察」に見えた。赤十字の制服を着た婦長のもと、典型的原爆症状の患者を担架に乗せ、それを私たち4人の白衣姿の看護婦が運んだ。いろんなご下問に婦長も我々看護婦も夢中で答えた。
救護活動も終わりに近づいたころ、良く働いたご褒美にと鹿島の祐徳院へ一泊旅行に連れて行ってもらった。鹿島出身の衛生兵のお世話であった。
広々とした旅館のお風呂で、のびのびと手足を伸ばし、ザアザア湯を溢れさせた風呂の味はたとえようもなく気持ちのよいものであった。ドラム缶のふろに入ったり、経専の寮の風呂を兵隊の後で使わせてもらったり、着物ジラミに悩まされていたことなどが嘘のようなひとときであった。湯上がりに着た宿の浴衣の感触、パリパリとノリを剥がしながら身にまとい、ああ、私は日本人だったと、久しく忘れていた平和の感じが蘇ってくるのを覚えた。昨日までのあの忙しさ、生々しい戦争の爪痕を見つづけてきた私たちにとって、それは命の洗濯であった。
食卓に並べられた純白のご飯、刺し身、てんぷら、もぎたての果物、野菜、まったく夢のような山海の珍味であった。満腹の後の散歩は宿の裏山へ登り、みんなで合唱である。
あの時ほど楽しい旅は経験がない。
この旅行が終わると間もなく、経専救護所は閉鎖されることになった。患者は新興善救護所に移送され、軍隊の人々も福岡陸軍病院へ原隊復帰である。医薬品は大村陸軍病院へ移管されることになり、深堀薬剤大尉が引き継ぎに来られ、私たち看護婦は婦長以下長崎市内出身者数名が残務整理に残り他は現地解散した。
残った私たちは新橋町の赤十字長崎支部の2階へ移り、そこで残務整理を終えた。
数日経つと再び転属である。村田婦長以下牟田、坂本、井川、池内(私)は常磐町にある長崎陸軍病院(移民教習所だった建物を陸軍病院として使用していた)へ。陸軍病院には山本曹長が残務整理要員として残っていた。
米軍は原爆投下の代償としてか、医療面ではおおいに協力してくれ、医薬品も大量に放出してくれた。ペニシリン、ストレプトマイシン、サルファジンなど、それに使い捨ての包帯にメスなど、みんな目新しいものばかりであった。
病院へも米軍衛生大尉が来て大久保通訳を通して何かと指示し、新しい病院造りが始まった。ネービー、ノースキャット等愉快な若い衛生兵たちと一緒になり、私たちも大久保通訳に習いながら片言の英語をあやつり、真っ黒になって新設病院造りに励んだ。
やがて、見違えるような病院が生まれた。市民病院の前身である慈恵病院である。
私たちにも10月18日慈恵病院勤務が発令された。
この病院は、大学病院、聖フランシスコ病院等の大規模な病院を、原爆で壊滅されている長崎市民にとって、かけがえのない病院になった。
今思うと、私たちは実によく働いた。それこそ昼夜の別なく。若かったからできたことであろうが、私たちがやらねばという義務感とか責任感にあふれていたからだと思う。
昭和21年4月15日、長崎第三救護班要員として大村陸軍病院派遣となり、私の原爆救護活動は終わった。
今年もまた8月9日を迎えた。
式典をテレビで見ながら合掌する。
そして、次の詩を口ずさまずにはおれなくなる。
昭和49年4月2日亡くなられた詩人、福田須磨子さんの詩の一節である。
なにもかも いやになりました
原子野に きつ立する巨大な平和像
それはいい それはいいけれど
そのお金で何とかならなかったのかしら
石の像は食えぬし 腹のたしにならぬ
さもしいと言って下さいますな
原爆後十年をぎりぎりに生きる
被災者の偽らぬ心境です