原爆被爆証言のページ

長崎原爆体験記

元・長崎県立長崎東高等学校養護教諭 高原 二三 (2000.9.2証言)


 昭和20年8月9日午前11時2分、それは終生忘れることの出来ない、あの忌まわしい閃光の一瞬であった。
 私は、日赤中央病院から一時帰省していて、その申告のため新橋町にあった日赤県支部に行っていた。松尾看護婦に東京本社の中央病院と大阪赤十字病院の相違などをあれこれ話していた時である。突然稲妻にも似た光が目に飛び込んできた。光は地震と雷が一緒になって襲ってきたような爆風を伴った。瞬間、私と松尾さんは両手で目と耳を保護して床にうつ伏せになっていた。
 どれくらいそうしていただろうか、長いような短いような時間であった。
 支部のガラスというガラスが(窓、薬品ケース、書棚)全部爆風の被害を受け、床には足の踏み場もないほどガラスの破片が散乱していた。私の脚にも数カ所破片が突き刺さっていた。その傷痕は80歳の今も消えていない。
 爆心地から3.2キロも離れた診療所でさえこのありさまだから、爆心地付近の被害のすごさが想像される。
 私たちは真っ黒になった顔を洗い、衣服の乱れを正し、脚の傷の応急手当をした。それが終わる間もなく、支部の診療所へ街で負傷した人達が次々に訪れてきた。「赤十字へ行けば何とかしてくれる」との一心で、負傷者が後を絶たない。
 顔、首、腕等露出部はすべて熱線で焼けただれた人。爆風で飛ばされたガラス破片、木片、屋根瓦等で傷つき血だらけの人。よくもまあ歩いてここまで来れたと思うような人。手作りの担架で運ばれてきた人。息子におぶわれてきたお婆さん……。
 さほど広くない支部は、会議室と言わず、診療所と言わず、前庭まで負傷者で溢れた。私たちは夢中で何もかも忘れて治療に専念したが、患者は後を絶たない。息つく暇もなかった。
 「長崎駅が燃えている」
 「県庁も市役所も焼けたげな」
 「もうすぐ長崎は全滅するとげな」
 今では流言飛語と言えても、耳にする情報はすべて悲観的で絶望的なものばかりで、目の前の負傷者を見ればあながち否定できない状況であった。心配した婦長から、
 「今日は大変ご苦労さまでした。家の遠い人は暗くならないうちに気をつけて帰りなさい」
 と指示があったので、旭町の私と、竹の久保の松尾さんと、二人で帰ることにした。
 耳にした情報で、県庁通りや市役所付近、それに長崎駅方面へは帰れないと判断して、西山越えで本原へ出、浦上川沿いに帰ることにした。新橋町の支部から寺町通り、新大工町を経て片淵町、西山2丁目へと歩いた。
 西山付近は標高370mの金比羅山の山陰になるらしく被害が比較的少ないように見えた。西山低部浄水場を通り仁田口近くまで歩いてきた時は、日足の長い夏の日とはいえ、とっぶり暮れるし、昼の疲れも出て歩くのがしんどくなり、見知らぬ防空壕に泊めてもらった。
 夜中の壕のなかは肌寒かった。
 怪我人の苦しみに喘ぐ声、肉親を失った人の嗚咽、闇のなか乳房を求めて泣く赤ん坊、母親は既に物言わぬ人になっているその赤ん坊を懸命にあやす老人らしい声……。
 私たちは声も出なかった。
 昼間の疲れで肩を寄せ合ってまどろんだ悲惨な壕の一夜を明かし、私たちは夜明けとともに再び家路へ急いだ。
 そこで私たちの目にしたものは、倒壊した家や火災の跡が続く廃墟の町、本原町一帯であった。ここは丘陵地で遮るものがないので、爆風・熱線の被害をもろに受けていたのである。ほとんどが農家で、木造の家が多かったせいもあろう。住民も原爆投下時は田圃に出ており、配給取りの行列に並んでいた人も多く、その人たちは遮光物のない状態で被爆したので建物の下敷きになったり、骨まで通る火傷で真っ黒焦げになって即死していた。家のなかにいた人は後に原爆症で亡くなったという。
 またこの本原町一帯は熱心なカトリック信者が多く、8月9日も懺悔のミサが行われて いて神父様をはじめ多くの信者が亡くなられたと後に聞いた。
 私と松尾さんはこの死者と廃墟の町を胸のつぶれる思いで通った。
 「看護婦さん、助けて。水、水……」
 制服姿の私たちに手をさしのばされても、何もできないのが悲しい。
 どこをどう通ったものやら、ただもう夢中で歩いていた。ふと気づくと私たちは西浦上の師範学校の付近にいた。破れてボロボロになった衣服をまとい髪を振り乱して半狂乱のように歩いている人、泣きわめきながら裸足で駆け抜けてゆく人、「地獄」を目の前にした思いであった。
 途中空襲で何度も避難しながら、それでも本能なのか、汽車道を通っていた。汽車は道の尾から不通になっていた。
 浦上川沿いにやっと竹の久保に辿り着いた。
 「ここが私の家らしい」
 と松尾さんが言う。が、あたり一面瓦礫の山、道さえない。
 途方に暮れる松尾さんを励まして、旭町のわが家へ連れてゆく。
 私の家は商売柄(元造船所)海岸通りにあり、家も頑丈にできていた。軒は傾き、戸障子は曲がり、瓦は飛び散って見る影もなかったけれど、家らしい体面は保っていた。
 家で、被爆後はじめておにぎりを食べ、お茶を飲んだ。そのおいしかったことといったらなかった。
 一休みしていると、稲佐警察署から、医者や看護婦が手不足で大変困っているので手伝いにきてほしいと要請があった。私たち二人は応援に行った。「赤十字の看護婦さん」は婦人会や消防団の人から大変信頼され、私たちも疲れを忘れてあらゆる知識をフル回転して働いた。夕方近くまで奉仕した時、松尾さんは、どうしても家族のことが気掛かりだと竹の久保へ家族の安否を確かめに出かけた。
 松尾さんの家族は、妹二人、弟一人は即死、両親と妹弟の四人は後日相次いで亡くなり八人家族のうち彼女一人が生き残った。彼女は気丈であった。市民病院の婦長を長い間勤め、退職後は書道教師として子供たちの教室を二箇所持ちながら自分は南画の勉強を続けた。何かの縁であろう、数年前、私と同じマンションに引っ越してきた。しかも同じ階の四軒先である。毎日のようにお互い訪ねあっている。
 さて、私はしばらく稲佐署に手伝いに通った。そして、8月15日を迎えた。
 終戦の詔勅が下され、日本が無条件降伏したその日、支部の使丁の亀崎さんが家へ赤紙を持ってきた。「臨時戦災救護要員として召集する」とあった。
 翌日、支部にゆくと村田婦長は既に来ていて、要員の揃うのを待っていた。
 村田婦長以下13名の看護婦は、片淵町の経済専門学校(現・長崎大学経済学部)へ移動した。
 当時、長崎市内にはこの種の救護所が数カ所あった。なかでも、新興善国民学校特別救護病院は規模が最も大きく、医療体制も整っており、原爆救護活動の本部として重要な存在で、長期にわたって医療活動を続け、原爆で壊滅した長崎大学病院の代わりとして市民の医療に携わってきた。その他、勝山、銭座、磨屋など各国民学校救護所があった。
 経専救護所には福岡陸軍病院より佐々木義隆軍医中佐を隊長(院長)に平川安澄軍医中尉等によって「仮編成第216兵站病院」が開設された。
 長崎経済専門学校は伝統ある学校で赤煉瓦の建物が有名であった。
 いかめしい校門をくぐり、右手にある大きな建物、たぶん図書館ではなかったかと思うが、そこを患者を最初に収容する病室に当て、「発着所」と呼ぶことになった。
 発着所に収容した患者には、まず、住所、氏名、年齢を訊いて名札を作り、胸に付けさせた。後に身内の人が探しにきた時分かりやすくするためである。そうしないと、芋の子を洗うような混雑のなかで探すのが大変だったのである。
 私と北坂静家(現岸本)さんが発着所勤務であった。係軍医は平川中尉(鹿児島・恰良町出身)で、物静かで思いやりのある方、やさしい目が眼鏡の奥で光っていた。
 病室(発着所)といっても床の上に筵が敷いてあるだけ。何の設備もない所へ患者は次々に運び込まれてくる。そのほとんどが身内のない方ばかりであった。広い病室もたちまち患者で溢れ、処置をするため看護婦が通るのがやっとという状態であった。
 被爆以後ろくに食べ物を口にしていない患者のため、地域の婦人会や消防団から、炊き出されたおにぎりが配給された。
 顔一面包帯をしながらも「おいしい。おいしい」と涙をこぼしながら食べていた。寝たきりの重症者には、私たちが手作りの箸(経専の構内の立木の小枝を折って作った)で口に運んでやった。その中の一人、泣きながら口を動かしていた患者は、翌早朝息を引き取った。誰もが生き抜ける保証もなく、死の恐怖におののいていた。実際、何事もなく元気に過ごしていた人も次々と櫛の歯を引くように亡くなっていった。
 亡くなった患者は一室に集めて、それを大八車に乗せ私設の焼き場で焼くのである。何とも言いようのない話であるが、私たちには感傷に浸っている暇はない。
 てんてこまいの私たちに助っ人がきた。大阪赤十字病院から、この4月に入学した1年生である。大阪も空襲がひどくなって病院も安心できないので、一時それぞれの支部に帰されていた人たちである。僅か3・4か月の基礎教育しか受けていなかったけれど、懸命にアシスタントとしての役を務めたので大助かりであった。

 ある日一人の患者が収容されてきた。見るともなしに付添いの人を見ると、県立高女の恩師であった。
 「西田先生、どうなさったのですか」
 私は思わず大声を上げていた。
 「おお、池内(私の旧姓)君か。君がここにいてくれるとは……、地獄で仏だ」
 聞けば、長男(中学生)が駅の付近で被爆して両足に大火傷をしたとのこと。第4度の火傷で、局所症状、全身症状ともに重症で予断を許さぬ状態であった。先生と娘さんが付きっ切りで看病された。先生のお宅は城山町にあったので、先生と娘さんと長男さん以外は全員即死だったという。
 息子さんの症状がやや好転しかけたとき、それまでは何事もなく元気に看病していたお姉さんが全身倦怠を訴えはじめた。連日の看病疲れかと思われたが、そのうち、皮膚や粘膜に出血斑が現れ発熱―――明らかに原爆症状である。やがて髪の毛が抜けはじめ、歯茎から出血し、下痢、嘔吐を伴うようになった。熱40度を越し、しきりにうわ言を言うようになった。すぐにリンゲル注射を始めたけれど、1本の注射が終わらないうちに亡くなってしまった。健康人と少しも変わらぬ元気さで弟の看病をまめまめしくしていたのに―――と思うと、原爆症の怖さが身に沁みた。
 姉の命をもらった弟は、後日脚の手術をして健康を回復、高校教師となり、今は退職して元気に過ごされている。

 私たちの看た患者は誰一人として同じ症状の人はいなかった。被爆の状況によるものと思われた。治療法も分からず、薬も多くはなかった。ただ、その人の生命力に頼る他ない状況であった。

 「看護婦さん、耳のなかに虫の入っとるごと、ゴソゴソするとですばってん、ちょっと見てくれんですか」
 と、訴える患者。側頭部裂傷の患者である。さっそく、ぐるぐる巻きにしている包帯をほどいてみると、耳のなかは蛆虫でいっぱい。しかも耳の外まで溢れ、傷口の膿を腹いっぱい吸ってコロコロ肥えた蛆がうごめいている。竹の急造ピンセットで蛆退治を始める。なかには、しっかり患者の皮膚にまで食い込んでなかなか取れないしぶとい奴もいる。汗だくで蛆取りをしていると、私の横で突然どたりと物が倒れる音がした。何事かと見るとアシスタントの1年生が、湯飲みにたまった蛆虫を見て貧血を起こしていたのである。

 敗戦の年は天候も異常で、真夏だというのにまるで梅雨のように毎日雨が降った。看護婦宿舎も雨漏りがひどくて、夜中に寝床をあっちこっちと移動させたものである。台風にも度々見舞われた。枕崎台風もたしかこの年ではなかったかと思う。

 ある晩のこと、別棟の病室に入院中の患者が、原爆のショックでか、予定日よりずいぶん早く産気づいた。さあ大変、この晩の当直に産科経験の看護婦がいなかったのである。宿舎へ婦長を呼びに行き、産婦を励ましながらこれからの手順を考える。幸い牟田看護婦の母上が経専から程遠くない馬町で産婆を開業しておられるのを思い出し、夜中にもかかわらず呼びに走ってもらった。
 召集されて来ている衛生兵(もうずいぶん年配の方であった)は、ただオロオロするばかり。「早くお湯を沸かして」と誰かの指示でお湯を沸かしてくれたのはいいが、シンメルブッシュという注射器やピンセット、鋏等を消毒する容器に沸かしていたのだった。焼け石に水である。経専の炊事場に走り、ともかくも産湯の準備を終わった。
 駆けつけて下さった牟田さまや婦長の手によって、無事女の赤ちゃんの産声を聞いた時は、みんなで歓声を上げた。衛生兵の小父さんも涙を流していた。
 古いシーツでおむつを作ったり、乏しい自分の衣料を提供したり、市内に実家や親戚のある者は貰いに行ったり、私たちは夢中になっていた。

 お婆さんが孫娘を連れて外来に来た。
 「学校でケツマクエンと言われ、医者にかかるごとって言われたと孫が言います。ばってん、家は百姓で忙しゅうして医者に連れて行く暇のなかとですもんね。ゆんべ、こいば連れていっしょに風呂に入ったとです。よーっと見てみたばってん尻はどーもなかったですよ。ケツマクエンってどげん病気でしょうか」
 心配顔のお婆さんに、平川中尉がわかりやすく説明した。
 「ひぇーっ、ケツマクエンて目ん玉の病気ですか」
 お婆さんのびっくりした大声に、物静かな平川中尉も苦笑していた。その時はやっと笑い声を我慢できたものの、宿舎へ帰りみんなに話して大笑いした。
 薄暗い農家の風呂場で、かわいくてたまらない孫の裸をあちらこちら撫で回しながら調べているお婆さんを思い、「孫ってそんなにかわいいものなのか」と皆で話し合ったけれど、いま、3人の孫娘を持つ私には、その時のお婆さんの心情は痛いほど分かる。

 往診に行った。大学生の息子が被爆し、火傷や裂傷で床に臥しており、外来まで行けないので―――との母親の願いを気軽に受け入れて、平川中尉は往診し治療した。それから毎日包帯交換に行った。若い力で目に見えて症状が好転してゆく。
 「看護婦さん、毎日ありがとうございます。あの子も素人の私が見てもずいぶん良くなりました。おかげさまです。これは家庭菜園でとれたものです。出来が悪いかもしれませんが皆さんで召し上がって下さい」
 母親はもぎたてのトマト、キュウリ、ナス、カボチャなどたくさん持たせるのだった。おかげで、看護婦宿舎の台所が潤い、ありがたかった。
 この患者は、数年後私が長崎東高校の養護教諭として勤務したときの社会料教諭石田明先生(後に県立女子短大学長)の弟であった。不思議な縁を感じた。

 何時だったか確かな日時は覚えていないが、宮内省から陛下の御名代として侍従の方が「原爆救護の現状視察」に見えた。赤十字の制服を着た婦長のもと、典型的原爆症状の患者を担架に乗せ、それを私たち4人の白衣姿の看護婦が運んだ。いろんなご下問に婦長も我々看護婦も夢中で答えた。

 救護活動も終わりに近づいたころ、良く働いたご褒美にと鹿島の祐徳院へ一泊旅行に連れて行ってもらった。鹿島出身の衛生兵のお世話であった。
 広々とした旅館のお風呂で、のびのびと手足を伸ばし、ザアザア湯を溢れさせた風呂の味はたとえようもなく気持ちのよいものであった。ドラム缶のふろに入ったり、経専の寮の風呂を兵隊の後で使わせてもらったり、着物ジラミに悩まされていたことなどが嘘のようなひとときであった。湯上がりに着た宿の浴衣の感触、パリパリとノリを剥がしながら身にまとい、ああ、私は日本人だったと、久しく忘れていた平和の感じが蘇ってくるのを覚えた。昨日までのあの忙しさ、生々しい戦争の爪痕を見つづけてきた私たちにとって、それは命の洗濯であった。
 食卓に並べられた純白のご飯、刺し身、てんぷら、もぎたての果物、野菜、まったく夢のような山海の珍味であった。満腹の後の散歩は宿の裏山へ登り、みんなで合唱である。
 あの時ほど楽しい旅は経験がない。

 この旅行が終わると間もなく、経専救護所は閉鎖されることになった。患者は新興善救護所に移送され、軍隊の人々も福岡陸軍病院へ原隊復帰である。医薬品は大村陸軍病院へ移管されることになり、深堀薬剤大尉が引き継ぎに来られ、私たち看護婦は婦長以下長崎市内出身者数名が残務整理に残り他は現地解散した。
 残った私たちは新橋町の赤十字長崎支部の2階へ移り、そこで残務整理を終えた。
 数日経つと再び転属である。村田婦長以下牟田、坂本、井川、池内(私)は常磐町にある長崎陸軍病院(移民教習所だった建物を陸軍病院として使用していた)へ。陸軍病院には山本曹長が残務整理要員として残っていた。
 米軍は原爆投下の代償としてか、医療面ではおおいに協力してくれ、医薬品も大量に放出してくれた。ペニシリン、ストレプトマイシン、サルファジンなど、それに使い捨ての包帯にメスなど、みんな目新しいものばかりであった。
 病院へも米軍衛生大尉が来て大久保通訳を通して何かと指示し、新しい病院造りが始まった。ネービー、ノースキャット等愉快な若い衛生兵たちと一緒になり、私たちも大久保通訳に習いながら片言の英語をあやつり、真っ黒になって新設病院造りに励んだ。
 やがて、見違えるような病院が生まれた。市民病院の前身である慈恵病院である。
 私たちにも10月18日慈恵病院勤務が発令された。
 この病院は、大学病院、聖フランシスコ病院等の大規模な病院を、原爆で壊滅されている長崎市民にとって、かけがえのない病院になった。

 今思うと、私たちは実によく働いた。それこそ昼夜の別なく。若かったからできたことであろうが、私たちがやらねばという義務感とか責任感にあふれていたからだと思う。

 昭和21年4月15日、長崎第三救護班要員として大村陸軍病院派遣となり、私の原爆救護活動は終わった。

 今年もまた8月9日を迎えた。
 式典をテレビで見ながら合掌する。
 そして、次の詩を口ずさまずにはおれなくなる。
 昭和49年4月2日亡くなられた詩人、福田須磨子さんの詩の一節である。

ひとりごと

なにもかも いやになりました
原子野に きつ立する巨大な平和像
それはいい それはいいけれど
そのお金で何とかならなかったのかしら
石の像は食えぬし 腹のたしにならぬ
さもしいと言って下さいますな
原爆後十年をぎりぎりに生きる
被災者の偽らぬ心境です