原爆被爆証言のページ

落下翌日爆心の野に立ちて

2回生 石丸 俊一 (2000.5.5・25証言)


<その1(5.5)>
 中学2年の夏、友人と東望の浜で水泳中に爆風と閃光を見たのが、原爆第一報でした。翌8/10爆心地の浜口町に一人で出かけ、可愛がってもらった大叔父一家を探しました。顔は熔けて無かったのですが、胸の認識票をたよりに二日に亘り探し、防空壕の中から一家6人の遺体を集めて、燃え残りの木切れで荼毘に付しました。
 この時は原爆とは分かっていなかったのですが、暫くして下痢や倦怠感、そして白血球の大幅な低下が起こりました。白血球は十数年に亘り、1500/ml 以下と正常値5000/ml位の間を変動した。前者の値のときは中学・高校・大学を通して傷はすぐ化膿し、風邪引くとすぐ肺炎になり高熱にうなされました。大学4年のときは最もひどく、とうとう休学してしまいました。
 こんな症状の学友の多くは昭和30年代以前に死に絶えました。私はぼろぼろの体で幸いにも三菱重工に滑り込む事が出来ましたが、最初は休暇が足りず欠勤がちでした。年と共に放射能が弱まり元気になってきました。仕事仲間の放射線の専門家から「君はひょっとするとお迎えがこないかもしれんぞ」と、からかわれましたが、実は少量の残存放射能が返って生命力を強めるホルミシス効果を命を掛けて実証した事になったのだと思います。
 私は若いときから地獄の釜の淵を歩き続け、本生とか余生とかの概念を持ちません。何時切れても死の瞬間、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽に行ける、と言う親鸞上人の教えを信じ、気楽に人生を楽しんでいます。

<その2(5.25)>
 僕は爆心地に翌日から2日間立入り、白血球低下で生死の境をさ迷ったくだりは、<その(1)>で少し述べましたが、僕は原爆の被爆者として苦しかった事を、人に話す事が嫌いで、公の講演の場等でそれに触れたことは一度もありません。
 平さん〔43回生)のお父さんがABCCに現在も勤められているとのことで当時を思い出しました。僕がABCCに定期的に呼び出されるようになったのは被爆の翌年の昭和21年からだったと思います。
 白血球が再三にわたりノーマル値の1/3程度に落ち、肺炎を頻発した等の事情は5/5のメールで述べた通りです。すっぽんぽんで診察着を着せられ、全身のチェックを受けました。所が24年頃からABCCからの呼び出しが全く無くなりました。恐らく長くは持たないとの判断から、別の世界に旅立ったと、カウントされたのだと今でも思っています。
 2回生でバレー部のマネジャーをしていた友人の糸永新君の従兄弟が白髭先生で当時の原爆病院のすぐ隣で開業していました。糸永君は父を無くして白髭医院に同居しており,僕は泊りがけで遊びに行っては、先生としょっちゅう顔を合わせ、具合が悪いときは診察して貰っていました。
 大学に行ってからはあまり顔を会わせる機会もなかったのですが昭和30年代、先生の子供さんと僕の子供が共に八幡町の「あけのほし」幼稚園で一緒でした。運動会で子供と一緒に輪になって踊っていたら、あっ、あれは石丸の幽霊か、まさか本人ではないだろうねと、呟いたのを家内が小耳に挟んできました。昭和20年代の僕は生きているのが不思議だったのだと思います。
 つい10日程前、尾道から「しまなみ海道」を通って生口島の平山郁夫美術館を見てきました。僕より一つ年上で文化勲章受賞の日本画家ですが、広島で被爆し白血球が半分以下に減り、昭和35年頃が最もひどく、生死をさ迷ったとありました。僕と全く同じような経過を辿りながら、病気を跳ね除け次々と大作を生み出すパワーに、職業こそ違え大変な感銘を受け、簡単にはくたばれんぞと思いました。
 鳥取県の三朝温泉は世界的に名の知れたラジウム泉で日本の平均の5倍くらいの放射能レベルがあるといわれています。そして住民の癌発生率は日本の平均からみて遥かに低い統計が出ています。
 僕が年と共に尻上がりに元気になったのは、今にして思えば原爆の放射能が指数関数的に低減し、現在丁度体内に三朝温泉を抱え込んだ状態になっているのではないかと、いう気がします。
 昭和20年代にお迎えが来るのを今日まで延ばしてもらい、日本の未来を若者と語り合う機会がまだ持てる事を神に感謝しています。そして僕が最も知りたいのは14才で被爆した、ぼろぼろの体がなぜ50年以上長く持てたかと言う事です。家内に言ってありますので、解剖して調べてもらいたいと思います。そして出来れば[三途の川ML]で結果を知りたいですね。