原爆被爆証言のページ

Re: 白髭先生の見た幽霊

29回生 近田(旧姓:白髭)幸子 (2000.5.23・25証言)


近田@29回(旧姓:白髭)です。

<その1(5.23)>

 ABCCの話しに、つい出てきました。
 私の父は、昭和26年から亡くなる平成7年まで、片淵町で内科を開業していましたが、その間、一貫して、自分の患者さんで、不幸にして亡くなった方を剖検(いわゆる病理解剖)し、死因を追求することをライフワークにしていました。
 勿論、一介の町医者に過ぎない父は、剖検の技術も施設も持ちませんから、実際の剖検はABCCでなされ、場合によってはその材料が長崎大学にもまわされ、両方が独自の立場から病理診断を下すということだったようです。
 父は常々、「一介の町医者だからこそ、自分の診療が正しかったかどうかを反省するためには、剖検は不可欠であるが、ABCCという存在がなければ私にはこのようなことは不可能だった」と、ABCCに深く感謝していました。
 以下、ABCCに対する父の思いを父の本より、引用します。
 「・・死者に対して礼を失しない剖検室のムードおよび思いやりある係員の協力を全面的に信頼し、遺体の粗末な取り扱い、あるいは事務処理の不手際等のために遺族の反感を買うことが絶対にないことを確信し(中略)・・・・この点について長崎ABCCおよび大学病理学教室の理解ある方針に感謝する。
 ことに長崎ABCCの剖検事務の進め方と係員のゆきとどいた言動には敬服すべきものがあり、アメリカ医学から私が学んだ最高のもののひとつである。」

 平君*、お父上の仕事に誇りを持って下さい。

 長くなって、すみませんでした。

 (*平君:平 浩明@43回生さん)

<その2(5.25)>
 石丸先輩、初めまして。
 先輩のお子さんとあけのほし幼稚園で一緒だったのは私の弟です。
(周さん*よりすごかよ、うちは7人きょうだい)
 東には来ませんでしたが、今は医者となって片淵で父のあとを継いでいます。

 今回、久しぶりに父の著書を開きました。
 難しい写真がいっぱい載っている医学書で、専門的なことは勿論私には理解不能なのですが、後半は「随想篇」で、読み物としても面白いです。
 第7章が「長崎医大と原子爆弾-学長の最期」というタイトルで、被爆直後の医学部周辺のこと、角尾晋学長の壮烈な最期、などがなまなましく語られています。

 今日、5月26日は父の命日。
 父は、五島の墓にはまだ入っていません。
 献体した父の遺体は、長大の医学生の勉強のために使われています。

(*周さん:中村周策@30回生さん)