7回生 小菅 正弘 (2000.5.5証言)
私の原爆被爆体験をお話します。といっても場所は中心から離れた片淵一丁目なので迫力に欠けますが S20.8.9~15 の記憶をたどります。
当日は登校日に当たっていました。道を隔てた向かいの友人の家に居ました。警戒警報なのか解除なのかラジオの音声ははっきりしませんでした。真空管が明るくなったり暗くなったりしていました。その頃、別の友人が"落下傘だ!!落下傘だ!!"と叫びながら飛び込んで来ました。我々が"何処だ!!何処だ!!"と言って探しているうちにピカッと稲妻のような閃光が走りました。ドンの音はは記憶がありません。友人宅の2段重ねの箪笥の上段が落ちたり、二階にあった防火用水用水甕が倒れて天井から水が滴り落ちてきました。
自宅に帰り、祖母?と現片淵5丁目?付近の横穴式防空壕に避難。途中、濃い霧の中に有るように太陽が見えなくなりました。夕立が降り、燃えて炭になった紙が黒い雪のようにヒラヒラと沢山降ってきました。
夕立が上がった時、青空の部分の超高空をB29が銀色の砂粒のように飛行しているのが見えました。成果の確認偵察に飛来したのでしょう。自宅へ帰る途中煤で汚れ血の付いた服装の女性に何人か会いました。
自宅は窓ガラスがかなり割れていました。然し開いていた窓のガラスは割れていなかったようです。開いていた所は爆風が通り抜けて被害が無かったのでしょう。(後から分かったのですが)二階の一部の柱が傾いて窓を閉めても隙間が出来ました。
何日間か米びつに米は無かったようです。澱粉に水を混ぜて炊いて容器に入れて固め適当に切ってソースをかけて食べました。私は下痢が止まらなくなり困りました。
中学生の叔父が学徒動員で三菱精機or兵器で働いていたが行方不明。親戚一同で大分探しましたが駄目でした。
数日後、デマか通達か知りませんが市内を離れ矢上の方へ避難しました。沢山の人がそれぞれ列を作って日見トンネルを越えて行きました。数日後、休戦になるとの噂があり警戒警報の発令も無くなり静かになりました。
ついに8月15日終戦(敗戦)となりました。自宅に帰るとラジオは童謡を放送していました。
まだ小学3年生なのでほんの身の回りの事しか覚えていませんが片淵、新大工、中川、西山も大体似たような状態だったと推定します。
機会があれば終戦直後の体験をお話します。