原爆被爆証言のページ

原爆の日

13回生 鶴田良子(2000.5.5証言)


父の事です。
 原爆の日、父は長崎市役所に居ました。勤務中の事。ガラスの破片が頭に沢山刺さったそうです。私は見ておりませんが。父の白髪を抜いていたので、沢山の禿が有ったので父に聞いたことがあります。頭中髪の中に隠れて解らなかったのですが、有りました。
 私は、原爆の時、今の諌早商業高校の前の家に、母と姉と私と土間でお芋をむいていました。閃光が光ったのを覚えています。三歳前だったので、記憶なのか聞いた話なのか定かでありませんが。土間のこと、位置の事(三人の )等は記憶に有るから半分ぐらいは確かでしょう。父は三日間 帰ってこなかったそうです。
 父は もちろん被爆者登録をしていたのでしょう。
 57歳の時(私が大学卒業後二週間目の日)、市役所で勤務中に死亡致しました。
 父の死に目に逢えたのは私だけで、母も姉も妹も間に合いませんでした。人間って急にさよならするんですね。
 それで、お通やの午前2時、ABCCの方が被爆者の追跡をしていたのでしょう。解剖の申し出がありました。母は、お役に立つなら父の帰りを待っていましょうと解剖を承諾致しました。2時間で帰りました。私と妹が付いて行きました。真夜中のABCCに大勢のひとが居たのを覚えています。
 原爆に遭われた方の人生は本当にドラマがありますね。と言う事は、一人一人の人生も多くのドラマが存在しているのでしょう。
 5月5日は、風呂好きだった父が丸い桶のお風呂が有ったのですが、菖蒲をお風呂に入れて私達に沸かしてくれていたのを覚えています。近くの井戸に水を汲みに行って沸かすのです。今みたいに水道ではありません。思い起こすと幸せなときだったんでしょうね。