原爆被爆証言のページ

ABCCのこと、父の仕事のこと

43回生 平 浩明(2000.5.23証言)


こんばんわ。平@43回生%茨城です。

 鶴田先輩、石丸先輩、小菅先輩始めまして。庄司先輩、岸上先輩こんばんわ。
 亀レスですが、鶴田先輩のお話しの中にABCCがでてきましたのでレスしました。

 この話題のおかげで、2~3日前、親父といつの間にか話さなくなっていた、親父の仕事の事について話すことができました。

 私の父はABCC(今は財団法人・放射線影響研究所、略して放影研といい、中川にあります)の検査技師をしております。
 鶴田先輩のお話しの中にもありましたように、私の父も多くの亡くなられた被爆者の方々の遺体を解剖させていただいてまいりました。
 父の働く財団法人・放射線影響研究所は被爆された方々のご協力を得てその体や細胞、遺伝子などを調べることで被爆による放射線の人体への影響を調べ、いかに治療に結びつけるかということを主眼において活動を続けてきた団体です。
 父はそこで検査技師として患者さんの組織を分析し、解析を行って来たようです。(私が幼い頃、父はよく被爆者の方の血液検査から得た染色体の写真を家に持ち帰り、46本の染色体を23対に切り貼りして並べ、赤鉛筆で丸をつけては欠損や突然変位、ダウン氏症候群?などを調べていたのを、はっきり覚えています)
 ただ、こうして父の仕事についてお話しするのにはやはり少しばかり抵抗がありますが、今回はあえてお話ししてみます。というのは父もずいぶん葛藤があったようですが、ABCCのころは必ずしも「被爆者の方をいかに治療するか」ということを主眼においてはいなかったため、被爆者の方の中にはABCCを目の敵にする、ということも少なくなかったようです。(広島の話しになりますが、中沢啓治著のマンガ「はだしのゲン」のなかで当時の被爆者の方のABCCへの感情が本当によく表現されていて、よくわかります。父が元ABCC職員だった私にとって、子供心に複雑な気持ちで読んでいました。)
 私も予備校までの長崎にいたころは被爆者の方の感情を配慮して、父の仕事のことを人に話したことはあまりありませんでした。(長崎に原爆が落ちたことすら知らない人が多い(広島は知っているが、、、)茨城に来てからはなおさら!
 爆心地を校区に持つ山里中学校卒の私にとって、東海村で臨界事故がおき、周囲数十キロで被爆騒動が起こったとき「被爆者に近付くと放射線は伝染する」説が流れた時などは恐怖すら覚えました。せやったら、200年間は草木も生えんといわれた長崎で生まれ育ったおれは今、この世に存在せえへんちゅうねん!
 無知と戦争・被爆体験の風化はどうしようもないところまで来ているのでしょうか?!)
 被爆体験を語り継ぐ人には本当に頑張って多くの人にその体験を聞かせてあげて欲しいです。

 話しをもとにもどして、つまり、悪い言い方をすれば100%アメリカの機関(エネルギー省管轄)であったABCCはアメリカがソ連との核戦争にそなえて、自国に原爆が打ち込まれたときの犠牲者を救うために、長崎・広島の被爆者を治療するのではなく、ただの「サンプル」として、研究・調査していたということです。(父も、ABCC時代初期の患者さんに対する扱いは「モルモット」と同じでひどかったらしか。といっておりました。)父も入社(入所?)はABCCやったとですが、ほどなく昭和51年に厚生省とアメリカエネルギー省の50:50出資による(財)放射線影響研究所に生まれ変わってからは、患者さん主体の組織になったということを聞いております。
 長うなりましたし、熱うなって、客観性に乏しか表現ばしそうなので、このへんで終わりにします。

 また、機会があればいろいろお話ししたいと思っています。