外に出ると左のほうに「あさいっちゃん」がいました。
旅館の前に茫然と立っていました。「あさいっちゃん」の顔の左半分が焼けただれています。
焼けただれている人がもうひとりいました。旅館の2階からこちらを見ている40才ほどの女中です。顔の右半分が焼きただれています。茫然として私の方を見ています。
多分この女中は、旅館の2階から路上にいる「あさいっちゃん」をからかっている最中に、熱風被害を両方とも受けてしまったのです。
「あさいっちゃん」という人は長崎では有名人でした。上まぶたを鉢巻きで吊り上げていました。その格好がユーモラスでおかしかったのです。それに「あさいっちゃん」は「小々知恵おくれの成人男性」でしたから、市民の人たちにとって、からかいやすい対象であったようです。
翌日、私を襲った熱風が大変な事態を起こしていると叔父さんが教えました。
「茂里町あたりは、昨日の爆弾で壊され燃えてしまったようだ。」
そのように聞くと自分の目で確かめたくなるのが人情で、朝食を済ますと歩いて長崎駅前に出て道路づたいに茂里町に行きました。
長崎駅から茂里町までは約1キロです。来てみると茂里町は強制疎開されたあとの空き地のままでした。隣町の目覚町から浦上駅にかけて、すべての家々が町ぐるみ黒焦げとなって文字通り焼け野原でした。
軍の命令で強制疎開され散り散りばらばらに去っていった茂里町の人たちは幸いでした。熱風の被害にひとりも会わずに済んでいます。
「人間万事塞翁が馬」と申します。昔中国に塞翁という老人が持っていた馬をめぐって、幸・不幸が転々したそうですが、茂里町の人逹は不幸のあとに「命をひろう」という最高の幸が待っていました。
目覚町が気になりました。小さいときに遊び親しんだ隣町だったからです。行って見ました。人家が焼け、黒焦げの木材が重なりあい散乱していました。 茂里町と目覚町に1時間から1時間半居ました。
好奇心にかられてそのあと原爆中心地に深入りしていたら大変なことになっていました。すぐ引き返したので放射線を長時間受けず、後日原爆病で悩まずにすんでいます。幸運でした。
叔父さん宅に帰ると、目で見た惨状をその夜、叔父さんに話しました。