原爆被爆証言のページ

私の青年期(その1)-8月15日

27回生 岸上登志朗(2000.5.5証言)


 私も父の事です。
 昭和4年生まれの父は16歳で被爆しました。
 もうかれこれ10数年、父は自分史を書いています。その中に被爆を受けたときの話があります。その節を紹介させていただきます。
 
「私の青年期(その1)」
 終戦の二ヶ月前だったと思います。春から夏に変わる頃でした。風雲急を告げるという言葉がありますが、大東亜戦争も末期症状に入っていて、私の身辺にも風雲が急を告げました。
 東京府中の興亜通信工学院での学習2年間を短縮して、就職先の上海の華中電気通信株式会社に急いで赴任することになりました。身辺の荷物を整理して翌日の汽車で長崎へ帰りました。
 当時自宅は、五島三井楽町の高崎郷という処に変わっていました。其処は父の故郷、柏郷の隣部落でした。4歳から長崎の淵尋常高等小学校卒業まで住んでいた茂里町は、軍の命令で強制疎開を受け空き地となり、既に無くなっていました。
 そのような事情で長崎駅に着くと片淵町に住んでいる叔父を訪ねました。叔父は五島行きの船は夜しか出ないと言い、昼間はアメリカの飛行機と潜水艦に狙われて危ないとのことでした。
 切符は午前中でも売っているというので、翌日朝食を済ませると大波止の切符売り場に歩いていきました。
 この日のお客は私1人でした。切符を売る窓口は右側で左の方は板壁でした。窓口の前に巾の狭いカウンターがあって、その上に右肘を乗せガラス戸を背にして、切符の発売を静かに待っていました。
 待ちの姿勢をとって5分くらい経った頃でした。それこそ突然でした。強い爆風がガラス戸を破り私の背中を襲いました。「熱っ!」という感じの熱気を後頭部に受けました。と同時に、その熱風が頬っぺの両脇を稲妻のように抜けました。鉄の棒を研磨機に当てると虹色が矢のように飛び散りますが、それと全く同じ色でした。
 私は背中を爆風に押されつんのめりました。そして地面に這いつくばっていました。熱風の嵐はほんの瞬間でした。その後はなにも起きません。起きないことを確認して立ち上がりました。身体に異常が無いか確かめました。熱風は後ろから受けました。自然と頭のうしろに手がいきます。
 チカッと手に刺さる物がありました。抜き取ると小さなガラスの破片でした。3個見つかりました。他に傷ついたところも無いので外に出ました。

 外に出ると左のほうに「あさいっちゃん」がいました。
 旅館の前に茫然と立っていました。「あさいっちゃん」の顔の左半分が焼けただれています。
 焼けただれている人がもうひとりいました。旅館の2階からこちらを見ている40才ほどの女中です。顔の右半分が焼きただれています。茫然として私の方を見ています。
 多分この女中は、旅館の2階から路上にいる「あさいっちゃん」をからかっている最中に、熱風被害を両方とも受けてしまったのです。
 「あさいっちゃん」という人は長崎では有名人でした。上まぶたを鉢巻きで吊り上げていました。その格好がユーモラスでおかしかったのです。それに「あさいっちゃん」は「小々知恵おくれの成人男性」でしたから、市民の人たちにとって、からかいやすい対象であったようです。

 翌日、私を襲った熱風が大変な事態を起こしていると叔父さんが教えました。
 「茂里町あたりは、昨日の爆弾で壊され燃えてしまったようだ。」
 そのように聞くと自分の目で確かめたくなるのが人情で、朝食を済ますと歩いて長崎駅前に出て道路づたいに茂里町に行きました。
 長崎駅から茂里町までは約1キロです。来てみると茂里町は強制疎開されたあとの空き地のままでした。隣町の目覚町から浦上駅にかけて、すべての家々が町ぐるみ黒焦げとなって文字通り焼け野原でした。
 軍の命令で強制疎開され散り散りばらばらに去っていった茂里町の人たちは幸いでした。熱風の被害にひとりも会わずに済んでいます。
 「人間万事塞翁が馬」と申します。昔中国に塞翁という老人が持っていた馬をめぐって、幸・不幸が転々したそうですが、茂里町の人逹は不幸のあとに「命をひろう」という最高の幸が待っていました。

 目覚町が気になりました。小さいときに遊び親しんだ隣町だったからです。行って見ました。人家が焼け、黒焦げの木材が重なりあい散乱していました。  茂里町と目覚町に1時間から1時間半居ました。
 好奇心にかられてそのあと原爆中心地に深入りしていたら大変なことになっていました。すぐ引き返したので放射線を長時間受けず、後日原爆病で悩まずにすんでいます。幸運でした。

 叔父さん宅に帰ると、目で見た惨状をその夜、叔父さんに話しました。