14回生 真野 真行(1999.9.22証言)
(1)本河内
昭和20年8月9日、まだ2歳たらずの私は、空の彼方を飛んでいく敵機を眩しそうに姉(歌子、当時10歳)と見上げていた。青く晴れ上がった空に、その機影はきらきら輝いていた。それが、あの恐ろしい原子爆弾を積んだ敵機とは知るよしもなかった。
ちょうど空襲警報発令が解除され、母(モク当時38歳)は本河内の叔母の家(母の妹)からそろそろ浜町に帰ろうとしている頃だったので、玄関に腰をかけて私を呼んでいる時だった。(この頃は、空襲警報がでる午前中に浜町の実家を離れて郊外の本河内の叔母(早田)の家に行き、昼前頃、警報解除になると浜町に帰ってくるのが日課であった。この早田さんの家では、先週の8月1日、三菱造船の工場で爆撃にあった夫(私の叔父)を亡くし、まだ悲しみが消えなかった頃である。)
しばらくして、あたり中がピカッと光って、そばにいた私は母に襟元をつかまれ、玄関の下に押し込まれた。一瞬後、回りのタンス等がものすごい音をして倒れて来た。あたりは一面に黄色い霞がかかったような色で、しばらく何も見えなかった。(そのころ玄関の下は穴が掘ってありーいわゆる人が、かがんで入る防空濠の小さなものーその中に私は押し込まれた。)
しばらくして周りの人たちは「こいは、敵が水源地に毒ば入れたとばい!」と言っていた。本河内のそばに西山の水源地があり、まるでそこからすぐそばに爆弾が落ちたような雰囲気だったのである。(本河内は、爆心地の浦上から、山一つ超えた所だった)
(2)浜町
市内電車は止まったので、母は赤ちやんだった私を背負って、歩いて浜町に帰った。浜町の家の周囲は道であって道ではなく、瓦が割れて散乱し、壁が剥がれて道をふさいでいた。
うちの裏の立野さんの土蔵は爆風が入り口から入って抜ける所がなくて、天井を突き抜けた。うちの土蔵は入り口と窓の戸(銅板と土塀)を全部開けていた為、爆風がぬけて、なんとか舞事だったので、爆風がどういう風に吹いたのか、誠に不思議な光景である。
経専(長大経済)のプールに行っていた次兄の宣英(当時県立長崎中学一年生、東高3回生)が帰って来た。プールにいたところ、敵機が二機飛んできて、後ろの機がパラシュートを2個、落としたのが見えた。敵襲だと思ってまっしぐらに駈け出した。西山の町まで駈けて行った時、ピカッと光って、とっさに通りがかりの家の玄関に飛び込んだ。一瞬後、とたんにすごい爆風が来たとの事である。幸い軽い怪我ですんだとの事であった。しかし翌日、火災が発生し市街の大半は焼けて、私の家の前の道から一つ先の通りで火災は止まった。丁度中島川の所(中央橋の所)から北側が火災にあったのである。中島川が防火壁の替わりをした事になる。長崎の中心地、浜町は原爆の被災は受けたものの、どうにか類焼は避けられた。
ところがが、医大に行っている父が帰って来ない。このころになると浦上(医大のすぐそば)の方に、大きな新型爆弾が落ち、一帯は全滅したらしいという風評だった。
母は覚悟を決め、一人で父を探しに行くことにした。ところが赤ん坊の私が母がいないと泣くので、母は私を背負っていくことにした。老祖父浩四郎(浜町郵便局長をしていた)から500円を預かり、祖父は「武男(父))は駄目のごたっばい。もし息ばしよったら、そんときは誰か人ば雇って、担いでもらって……」と声を詰まらせた。
水筒とカンパン(麦粉で作ったもので、硬い非常食)、赤ん坊の私を背負い、そして500円という大金を懐に家を出たのは原爆投下3日目のことだった。
(3)爆心地へ
浦上へ通じる道は、市電もバラバラに砕け、そこは死体の山で、とても通れる道ではないと聞いていたので、山越えしていく事にした。途中何度か、敵機(偵察機だったらしい)が飛来し、その度に「伏せ」を繰り返していった。やがて、浦上の母の実家のそばを通った。あたりは何もない。
母の父母の家(私の祖父母、岩永一家)では、父母の遺体はどこを探しても出てこなかった。ただ熱い灰の中に、見覚えのある一片布の切れ端を見つけてそれを懐に入れた。母は、とめどなくなく流れる涙をぬぐおうともせず、そこに立ち尽くした。そして「こうしてばかりはおれない」流れる涙をそっと拭いてそう思った。又爆心地に向かって、歩いていった。
(4)長崎医大の惨状
穴弘法の中腹についた。まるでツンドラ地帯のような光景をしていた。防空壕のそばの灰はまだ熱かった。そのそばには、死体が一杯並んでいる。医大から穴弘法の山中に逃れてきて息絶えたのだろう。
みちみち、倒れてる人や寝かされている人々が、体を動かさず「助けてください」「助けてくれー、水をくれ…水を…」というので、母は「カンパン」を一つと、水筒の水をやって「お題目ば、唱えんですか」といってまわった。そして一人又一人と死んでいった。何人もやっていると、手持ちのカンパンも水筒の水も無くなってしまう。「父は生きているかも知れない」そう思って、そっと手を合わせてそこを立ち去った。
やがて、薬局の後ろの小高い丘に出た。そこは芋畑であったが「つる」もなく、ただうねがあるだけである。
遠くに大勢の人が寝かされている様子である。母は声を限りに叫んだ。「薬局の真野さーん」何度かさけぶと、下の方から「芋畑の三枚目~」。もう一度呼ぶと、だれかが、また「三枚目の畑の中~」という若い人の声が帰って来た。
(5)父の発見
芋畑と言ってもどれが一枚か三枚か分からない。やっと会えた医大生に会ってきくと、「真野先生はこっちです。でも腰や体中をやられて、動けんらしかです」という。
大勢のなかに寝かされ、ゲートルが半分ほどけ、泥だらけになった白衣を着た父(武男)を見つけたとき、母は漸く安堵した。ぐったりした父を抱き起こし「カンパン」と、残っていた水筒の水を飲ませた。
防空濠の側で調先生と会った。調先生は「よう助かったね」といって「あんときは、申し訳なかったね。奥さん!そいでも、ここでは皆ほとんど死んでしもうた。ここで焼かんば、しかたんなか」といっている。
6月、母の長男(私の一番上の兄、浩和で当時、県立長崎中3年生、私と14歳年上)を腸捻転で亡くし、そのときの手術を担当した医大の名医である。6月、長兄の死去のときには、まがりなりにも「竹の久保」で葬儀していた。あとで聞いたのだが、その時の長中の同級生は大半、このときの原爆で死んでいた。今となっては葬儀どころではない。いま生きておれば東高一回生となっていたろう。
(6)助け出された時のこと(後で聞いた父の話
父の話では2階の薬局室にいる時、佐賀に嫁ぐ予定の田中さん(薬剤手補)が訪ねてきて話をしていたが、空から「きゆ-ん」という金属性の昔がした。ふと思い「今空襲警報が解除になった所ばってん、また何時あるか分からんばい。下にいって上着ばとってくるけん」といって部屋を出て、階段をおりようとした所で、ピカドンの風圧で吹き飛ばされてしまった。薬局室にいた人は吹き飛ばされ、ガラスやビンの破片で田中さん(女)は即死、他の人も重傷らしい。
父が倒れていた踊り場にも窓があったが、幸い8月1日の爆撃で、窓のガラスはすでに吹き飛んでいた。そこで気を失って倒れていたらしい。
やがて、助かった医大生を指揮して、永井隆博士が(頭に怪我をしていたが)重傷者を救出にかかった。最初、踊り場に倒れている父を見つけたのは医大生(当時、付属医専3年生だった堤一真氏)であった。はじめ地下室に、父やその外の重傷者を運んだ。ところがしばらくして地下室に火がまわった。
そこで今度は地下室から裏の芋畑に運ばれたが、最後の負傷者を運び出すのと同時に、医大は火に包まれた。桑畑に寝かされている時、永井隆博士が「これじや真野は助からんばい」と思って、枕もとに、缶詰を一つそっとおいていた。
当時、薬局員は死亡者は7名(行方不明者含む)そして、残り16名が重軽傷者であった。それに薬局では、放射能による火傷よりも、ガラスによる裂傷が多かったらしい。(皆、息が切れた人は、最初は一人一人焼いていたが、途中からそのまま生めていたとのこと。)
(7)爆心地からの救出
しばらくすると、下の谷では島原の消防隊の人たちが来て、病院関係だけ運んでいるらしい。母は又下に向かって叫んだ。「病院関係です。助けてくださーい。お願いしまーす」「助けてくださーい」。消防隊の人が運んでくれたのは、まだ残っていた結核病棟だった。その部屋は広い部屋に、ベッドが一つも残っていなかった。窓は吹き飛んで窓の枠は何にもない。そこに順番に寝かされていった。
治療といっても、何にもない、ただ火傷に赤チンキを塗って包帯をしているだけである。隣の人は左胸に医大生と書いてあったが、しばらくすると息が切れていた。
「いつまでも、ここにいるわけにはいかない」と母は思った。そこから類焼を免れた寺町の大光寺の方に運ばれた。そこではじめて、焚き出しのおにぎりをもらった。大光寺は川南造船の救護所であったが、その時、類焼を免れた各寺院は臨時の救護所となっていた。そのお寺は多くの人達が運び込まれ、まるで地獄のようだった。子供の鳴き声が翌日にはか細く消えて、そのそばで小さな遺体が焼かれていった。そういう遺体焼却は連日のように続いた。
それから2~3週間、父のそばで、家族交代で介抱した。そして、人に頼んで家に担いで帰ったのである。その後、父は1年近く寝ていたそうである。
(8)あとがき
その時、父母を助けてくれた人、後に残って立ち働いた元気だった人達が、その後原爆症で亡くなった。
父が生きていたのは、気を失って気がついたとき「歯にチュインガムみたいな、ゴムみたいなものがたくさんくっついていた」そうである。それを吸い込まなかったのが良かったのかも知れない。あるいは、原爆投下後、そこにいつまでも居ず、すぐに爆心地を離れたせいかも知れない。
この話は母が何回となく、私や知人に話をきかせていたものである。いまとなっては、いま一度たしかめておけば良かったと、悔やまれることしきりである。
この時、父は長崎医大付属病院薬局長代理や医専(医大付属医学専門部で後の医学部)と薬専(後の薬学部)の講師をしていた。父はこの後生きて、祖父の郵便局長(昭和23年没)の後を引き次いだが、まもなく喀血し長期結核入院した。長い闘病生活の後、晩年、漸く仕事に復帰することができ、管理薬剤師として7年間働いたが、風邪をこじらせ79歳で亡くなった。母は、看護婦として働き、晩年は悠々自適、信仰に生き、88歳で亡くなった。父母2人とも、この長崎の地を慈しみ、この地を愛し、長崎を離れなかった。
3年前、長崎に帰省し、祖父50年忌(長中6回卒)、父17年忌(長中33回卒)、母3年忌を合わせて、済ませた。
いまここに、今は亡き父母と、原子爆弾の犠牲者にこころから、哀悼の意を捧げたいと思う。