原爆被爆証言のページ

一九四五・八・九--ナガサキ

8回生 池山 吉彬 (1999.4証言)


 よく晴れた日だった。南国らしい強い陽射しが舗道をまぶしく照り返していた。私はそのとき、古くて大きな家の、座敷から玄関に向かう板張の廊下を、兄とふたり、ふざけて駆けまわっていた。
 戦争も押しつまって、食糧事情も悪く、馬鈴薯や薩摩芋が朝夕の食卓にのぼるような状態だったが、活力だけは、小学二年の子どもから奪い去ることはできなかったらしい。
 むろん、空襲警報が鳴り、B29が巨大な鳥のような影で町全体を覆うようにして飛ぶ姿を幾度も目撃した。夜空に交差するサーチライトや焼夷弾の白い輝きは、恐怖感をともないつつもひどくスリリングな、美しい眺めとして私の中に残っている。
 機銃掃射の凄まじさを経験したのもおそらくその頃だろう。一度は、私の家から道路をはさんで対角線の位置にあったバスの待合室に、機銃に追われて逃げ込んだ人が、璧を突き破ってきた弾にあたって即死した。人の話では、外側の壁の穴は小さかったが、内側で大きく破裂したとのことだった。恐ろしさに二階の欄干にへばりついていたので、その時は死体は見なかった。
 二度目は、漁船が狙撃された。やはり暑い日だった。青く煙るような雲仙岳を望む海に、まっすぐに突き出た桟橋を四人の漁夫にかつがれて担架が運ばれてきた。興奮した人々の群れがそのまわりをとり囲んでおり、担架につれて移動していた。薄緑の毛布をかぶせられたそれは、ゆっくりと、立ちすくんでいる私の眼の前を通過した。毛布の端がすこしめくれていた。そこから、土気色をした足がわずかにのぞいていた。私は戦慄した。それは憐憫でもなく憤怒でもなかった。喉元を突きあげてくるような激しい嫌悪感が幼い私をわしづかみにしていた。死というものと直に向き合った、それが最初だった。
 しかし、まだ死は、活気に満ちた子どもの世界を塗りつぶすほどのものではなく、私はすぐにそれを忘れた。死と隣り合わせに住みながら、ほとんど死を意識しない日常がそこにあった。あるいは、こういったほうがより適切であろうか。比較すべき平穏な日々を知らぬ子どもたちにとって、その異常な生活がそのまま日常であったのだ--と。
 それゆえ、私はすぐ上の兄とふたりで、笑い声さえ立てながら、廊下を駆けていたのである。
 --そのとき、世界が突然白くなった。
 まばゆい光が私の全身を貫いた。
 死ぬんだ、こうして死んでいくんだ、と感じたのを私はまざまざと覚えている。
 意識が戻ってきたとき、暗闇があたりを領していた。一条の光もなかった。その黒ぐろとした闇の中に、しばらく茫然とすわっていた。これが死後の世界かなと思いながら不思議と恐怖はなかった。からだを動かしてみた。動く。すると傍らでかすかに人の気配がして、同じようにみじろぎするようすが感じられた。ぞっとした。このほうがはるかに不気味だった。やみくもに私は飛び出した。次の瞬間、私は明るい外界の中にいる自分を見出した。生きていたのだ。白い光に包まれたとき、とっさに玄関のそばにある押し入れの中にもぐりこんでいたのだった。
 驚いたのは、私の後から、ひとりの中年の男が同じ押し入れから這い出してきたことである。まったく面識のない人だった。あとで聞いたところによると、その人は、家の前をリヤカーを引いて歩いていて、やはり閃光を浴びたため、急遽、玄関から飛び込み、さらに私の後を追って同じように押し入れに転がりこんだ、ということだった。一緒に廊下を駆けていた次兄は、机の下にもぐりこんで難を逃れていた。
 そのとき、母や姉がどこにいたのか、まったく記憶がない。不思議なことに、当時のことを家族で話題にしたことは一度もない。同年輩の友人たちともない。あまりにも体験が強烈なので、それが他と共有されるものではなく、何か特別な切り離された世界のこととして、各人の脳裡深く沈潜しているのであろうか。
 私も自分の体験を語り出したのは、東京へ来て、原爆が投下されたときどうしていたのか、という問いを友人たちから投げかけられてからである。そんな場合でも、自分の内包する感覚に比して言葉がいつも浮ついてくる感じがして、私はいつも口籠もるか、一気にまくしたてるかするのだった。いまでもまだ私はそのような習性から抜け切っていない。けっして傲岸な経験主義からではなく、あの「原爆許すまじ」という歌をいくばくかの違和感なしに唱うことができない。
 ともあれ、話を続けよう。次兄と私は、すぐにヤドカリのように先の尖った頭巾を被せられて、家の横手に掘られた防空壕に入れられた。父はもう何年も座敷で病臥していたが、そのときも、どうせ死ぬならここで死にたいと言って離れようとしなかったので、子どもたちだけでその狭い壕の中に長い時間隠れていた。海が近かったので、底のほうから温水が滲んでくるようなところだった。時たま、こわごわと顔を地上に出して眺めると、長崎の空が赤黒く気味の悪い色に染まっていた。
 長兄はあの空の下にいるはずだった。私の住んでいた町は、長崎から八キロほど山を隔てたところであるが、それでも爆風で玄関のガラスが粉々に割れ、敷居のレールが曲がった。

 その日、長兄はとうとう戻ってこなかった。三日目に、知り合いの漁師が探しにいってくれたが、消息はいっこうにつかめなかった。長崎の惨状が伝わり、皆がほとんど絶望しかけていた一週間目に、兄はリヤカーに乗せられて帰ってきた。
 後で聞いたところでは、そのころ元気だった叔母が足を棒にして深し回って、大村で奇跡的に見付け、連れてきたということだったが、私には前後の明確な記憶がない。ただひとつの光景だけがいまも眼に焼きついている。居間に運ばれて兄の腕の包帯を取りかえたときだ。母が一枚一枚油紙を剥がしていくのだったが、それにつれて皮がびらびらと剥がれていき、あとに腐ったような、黒ずんだ黄色い肌が現われてきた。指を立てると、そのままズブズブと突き刺さってしまいそうな肌だった。兄はもう助からないのだ、と私は思った。
 しかし、長兄は死ななかった。健康を取り戻し、病気の父のかわりに農業に精を出した。精悍な顔立ちで、骨格もたくましく、ほとんど愚痴らしい愚痴もこぼさなかったので、年の離れた私には、その内面を推し量るべくもなかったが、それでも暑い陽射しの下での長時間の農作業は体にこたえるらしく、ときどき昼間からぶらぶらと休んでいることがあった。肩から腕にかけて大きなケロイドが残ったので、さすがに銭湯に行くのはいやがっていた。
 新型爆弾(原爆のことを当時人々はそう呼んでいた)を受けた人たちが長崎から私の町のはずれの海に面したホテルにも収容されていたが、死ぬと、海岸で布団を焼いた。その臭気が風に乗って、ときおり、町まで流れてきた。
 兄の被爆の状況を私は直接尋ねたことはない。多くの被爆者がその後もつぎつぎに死んでいた。町には顔半分に紫色の痣をもつ若い女の人もいた。家では、そのことに触れるのは禁忌であり、新聞にそれらしい記事が出ると、急いで兄の眼につかないようにした。いつ発病するか、誰にも予測できなかった。明日、突然、白血球が変化を起こすかも知れないのだ。それは兄にとって原爆そのものよりも恐ろしい日々であったに違いない。
 そのころ、酒が放射能に効くという俗説があった。兄はうまい具合に酒が好きで、それも浴びるように呑むほうで、「酒のせいでおれは助かったのだ」と笑い飛ばすことがあったが、それだけとは考えられなかった。
 兄の被爆の詳細を知ったのは、私が中学に入ったころ、兄が二、三人の友人たちと出した薄いガリ版刷りの冊子を、偶然、本棚の書物の間から見つけたからである。
 当時、兄は旧制中学校の生徒であったが、学徒動員で工場へ徴集されていた。その朝も、兄はふたりの友人と歩いて長崎へ向かったが、途中の田上という峠で一休みした。凧合戦で知られた唐八景の近くである。そこから坂道を少し下るとすぐ長崎の市街が見える。その峠でどういうわけか、友人ふたりは今日はなんとなく気がすすまないと言って、そのまま町へ引き返した。信じがたい、できすぎたような話だが、事実なので、ありのままに書いておく。そして、兄だけがひとり長崎市街に入り、被爆した。

 焼けつくような閃光を浴びたあと、兄もやはり長い間気を失っていた、という。意識を取り戻したとき、崩れた軍需工場の建物の下敷きになっていた。どうにかそこを抜け出て、灰塵と化した街に足を踏みだしたが、そこはまさしく地獄としか形容のしようのない光景であった。

 四つの島の運命を染めて
 都市は赤黒く炎上し
 醜悪な雲のした
 数えつくすことのない死を生んだ

 荒涼とした現代の廃墟に
 冬瓜(とうがん)のように膨張した顔が転がり
 首のない 黒焦げの腕が土をつかむ
 ぼろぼろに千切れた魂を引きずって
 よろめき歩く亡霊の衣に
 悲鳴が死臭のようにすがりつく
 赤錆(あかさぴ)色の河には 嬰児が流れ
 野良犬のむくんだ腹にぶつかると
 ゆっくりあおむけに沈んでいく

 ざらざらした放射能の風を浴びて
 そこでは 時間さえ
 ビイドロのように融けはじめる

 後年、私なりに詩作したが、なお筆がおよぶとも思えない。
兄は歩いているうちに眩暈を覚え、暗い洞窟のような場所へ入って、黄色い、どろどろした液体を吐いた、という。それからどこをどうさまよったか、最後に長崎駅へ出たところ、貨物列車が一台、奇跡のように動いていた。半死半生の多くの人々が、その荷台にいなごのように群がって乗り、大村まで運ばれた。
 この列車については後日談がある。あるとき、NHKのテレビで永六輔の司会した番組がこれを取り上げ、私は偶然にスイッチをひねってそれを観た。この列車は、従来、被爆者の救援列車といわれていたが、そうではなく、まったく正規の時刻表に従って被爆直後の長崎に入構したものであったということだ。それに長兄も乗り、大村まで行ったのである。運が強かったのだろう。
 だが、大村の病院では、戦争中のことで薬品もとぼしく、もしあったとしても、原爆症という未曾有の病害に治療のほどこしようもなかったのであろうが、赤チンキを塗って油紙で巻くだけで精一杯だった。そのあいだにも、間断なく運びこまれ病院の廊下に放置された被爆者がつぎつぎと息を引き取り、さながら死体収容所のようなありさまになった。

 長兄は、ガンで亡くなった。五十一歳だった。春には元気で一緒に酒を飲み、夏に倒れた。駆けつけたときには、すでに激しい喘ぎの中で、意識があるとも思えなかった。原爆医療研究所で解剖したが、胃から始まり内臓のすべてに転移していた。原爆との関係ははっきりとはわからなかった。応接にあたった研究員は遠い親族であったが、だれもそのことについては問いたださなかった。
(1983)

この証言は、1998年に出版された池山吉彬さんの詩集「林棲期」に収録されたものです。ご本人のお申し出により、この原爆被爆証言のページに掲載します。