その日、長兄はとうとう戻ってこなかった。三日目に、知り合いの漁師が探しにいってくれたが、消息はいっこうにつかめなかった。長崎の惨状が伝わり、皆がほとんど絶望しかけていた一週間目に、兄はリヤカーに乗せられて帰ってきた。
後で聞いたところでは、そのころ元気だった叔母が足を棒にして深し回って、大村で奇跡的に見付け、連れてきたということだったが、私には前後の明確な記憶がない。ただひとつの光景だけがいまも眼に焼きついている。居間に運ばれて兄の腕の包帯を取りかえたときだ。母が一枚一枚油紙を剥がしていくのだったが、それにつれて皮がびらびらと剥がれていき、あとに腐ったような、黒ずんだ黄色い肌が現われてきた。指を立てると、そのままズブズブと突き刺さってしまいそうな肌だった。兄はもう助からないのだ、と私は思った。
しかし、長兄は死ななかった。健康を取り戻し、病気の父のかわりに農業に精を出した。精悍な顔立ちで、骨格もたくましく、ほとんど愚痴らしい愚痴もこぼさなかったので、年の離れた私には、その内面を推し量るべくもなかったが、それでも暑い陽射しの下での長時間の農作業は体にこたえるらしく、ときどき昼間からぶらぶらと休んでいることがあった。肩から腕にかけて大きなケロイドが残ったので、さすがに銭湯に行くのはいやがっていた。
新型爆弾(原爆のことを当時人々はそう呼んでいた)を受けた人たちが長崎から私の町のはずれの海に面したホテルにも収容されていたが、死ぬと、海岸で布団を焼いた。その臭気が風に乗って、ときおり、町まで流れてきた。
兄の被爆の状況を私は直接尋ねたことはない。多くの被爆者がその後もつぎつぎに死んでいた。町には顔半分に紫色の痣をもつ若い女の人もいた。家では、そのことに触れるのは禁忌であり、新聞にそれらしい記事が出ると、急いで兄の眼につかないようにした。いつ発病するか、誰にも予測できなかった。明日、突然、白血球が変化を起こすかも知れないのだ。それは兄にとって原爆そのものよりも恐ろしい日々であったに違いない。
そのころ、酒が放射能に効くという俗説があった。兄はうまい具合に酒が好きで、それも浴びるように呑むほうで、「酒のせいでおれは助かったのだ」と笑い飛ばすことがあったが、それだけとは考えられなかった。
兄の被爆の詳細を知ったのは、私が中学に入ったころ、兄が二、三人の友人たちと出した薄いガリ版刷りの冊子を、偶然、本棚の書物の間から見つけたからである。
当時、兄は旧制中学校の生徒であったが、学徒動員で工場へ徴集されていた。その朝も、兄はふたりの友人と歩いて長崎へ向かったが、途中の田上という峠で一休みした。凧合戦で知られた唐八景の近くである。そこから坂道を少し下るとすぐ長崎の市街が見える。その峠でどういうわけか、友人ふたりは今日はなんとなく気がすすまないと言って、そのまま町へ引き返した。信じがたい、できすぎたような話だが、事実なので、ありのままに書いておく。そして、兄だけがひとり長崎市街に入り、被爆した。
焼けつくような閃光を浴びたあと、兄もやはり長い間気を失っていた、という。意識を取り戻したとき、崩れた軍需工場の建物の下敷きになっていた。どうにかそこを抜け出て、灰塵と化した街に足を踏みだしたが、そこはまさしく地獄としか形容のしようのない光景であった。
四つの島の運命を染めて
都市は赤黒く炎上し
醜悪な雲のした
数えつくすことのない死を生んだ
荒涼とした現代の廃墟に
冬瓜(とうがん)のように膨張した顔が転がり
首のない 黒焦げの腕が土をつかむ
ぼろぼろに千切れた魂を引きずって
よろめき歩く亡霊の衣に
悲鳴が死臭のようにすがりつく
赤錆(あかさぴ)色の河には 嬰児が流れ
野良犬のむくんだ腹にぶつかると
ゆっくりあおむけに沈んでいく
ざらざらした放射能の風を浴びて
そこでは 時間さえ
ビイドロのように融けはじめる
後年、私なりに詩作したが、なお筆がおよぶとも思えない。
兄は歩いているうちに眩暈を覚え、暗い洞窟のような場所へ入って、黄色い、どろどろした液体を吐いた、という。それからどこをどうさまよったか、最後に長崎駅へ出たところ、貨物列車が一台、奇跡のように動いていた。半死半生の多くの人々が、その荷台にいなごのように群がって乗り、大村まで運ばれた。
この列車については後日談がある。あるとき、NHKのテレビで永六輔の司会した番組がこれを取り上げ、私は偶然にスイッチをひねってそれを観た。この列車は、従来、被爆者の救援列車といわれていたが、そうではなく、まったく正規の時刻表に従って被爆直後の長崎に入構したものであったということだ。それに長兄も乗り、大村まで行ったのである。運が強かったのだろう。
だが、大村の病院では、戦争中のことで薬品もとぼしく、もしあったとしても、原爆症という未曾有の病害に治療のほどこしようもなかったのであろうが、赤チンキを塗って油紙で巻くだけで精一杯だった。そのあいだにも、間断なく運びこまれ病院の廊下に放置された被爆者がつぎつぎと息を引き取り、さながら死体収容所のようなありさまになった。
長兄は、ガンで亡くなった。五十一歳だった。春には元気で一緒に酒を飲み、夏に倒れた。駆けつけたときには、すでに激しい喘ぎの中で、意識があるとも思えなかった。原爆医療研究所で解剖したが、胃から始まり内臓のすべてに転移していた。原爆との関係ははっきりとはわからなかった。応接にあたった研究員は遠い親族であったが、だれもそのことについては問いたださなかった。
(1983)
この証言は、1998年に出版された池山吉彬さんの詩集「林棲期」に収録されたものです。ご本人のお申し出により、この原爆被爆証言のページに掲載します。