原爆被爆証言のページ

昭和22年生まれの私の8月9日

17回生 山口 光太郎 (1999.4証言)


 私は昭和22年2月に西彼杵郡の炭坑の島、崎戸で生まれ、小学4年生のとき、父の定年退職にともない長崎市に引っ越してきた。父方、母方とも市内に親類・縁者はいなかった。そのため、私自身はもちろん、身近に原爆の被害を受けたものもいなかった。私の原爆との接点は、父の背中を通してのものである。

 父は物静かな人だった。23歳まで一緒に暮らしたのであるが、父と1対1で話した記憶はない。もちろん、海水浴のような行楽・レジャーに連れていってもらった記憶もない。しかし、不思議と父のあとをついて歩いた記憶はたくさんある。まんじゅうを蒸すときにくるんだ「柏の葉」や「まんじゅうの葉(そう呼んでいた)」を山にとりにいったり、野鳥の「ほおじろ」を獲りにいったりするときには、父のあとをついて歩いていた。母から「お父さんと一緒に行ってきなさい」と言われたわけではないのであるが。
 長崎市に越してきたのは5月の連休の前であった。長崎大学の裏手にあたる浦上地区である。長崎でも父のあとをついて歩く習慣は続いた。「まんじゅうの葉」をとりに行く場所が浦上水源地の山に変ってはいたが。

 長崎に住んでいれば、8月9日がどのような意味を持つのか、小さな子供にもわかるのである。長崎での最初の8月9日は、父と一緒に平和公園にいた。それからの8月9日は、父と平和公園で迎えた。この習慣は中学まで続いた。父は律義で信仰心の深い人間であったので、原爆祈念日は式典に必ず行くものだと思っていたのだろう。
 生意気盛りになる高校時代は、さすがに父と一緒に式典に行くことはなかった。何年生のときか、行かなかった8月9日があった。あとあとまで、後ろめたい気分になった。父は毎年、グレーのズボン、白の開襟シャツに、白い帽子をかぶって出かけた。

 東京で家庭をもった。子供を連れて帰省するのは、お盆の季節が多かった。小学校にあがったとき、まず文化会館に連れて行った。果たして原爆の悲惨さを理解してくれるのか。あえて何も説明せず、陳列物を見せた。饒舌な上の子も口数が少なくなっていた。
 私が最初に文化会館に行ったのは、長崎市に越してきてからすぐだったと記憶している。同居していた叔母が連れて行ってくれたのであるが、ショックは大きかった。そのあと、学校の行事として行くこともあったが、正直言って入るのが恐かった。自分の子供にも、この怖さを感じて欲しかったのである。

 長崎で暮らした時間より、東京でのそれが長くなった。今の私にとっての8月9日はテレビを通しての式典になった。広島が済むと長崎である。去年(1998年)の8月9日は日曜日にあたった。テレビ番組をみても式典の中継の予定はない。NHKならば、黙祷の時間を用意しているかと思って高校野球中継を見た。試合を一時中断して長崎・原爆のために時間を設けるのだろうと思ったが、何事もなく試合が続行された。
 もとより、黙祷のための号令を誰からも出してもらわなくていいのであるが、肩すかしをくらったような気分になった。

 

 父は10年前になくなった。なぜ、毎年祈念式典に出席していたのか分からないが、そのあとについていくことで、背中で原爆について考えることの大切さを教えてもらったような気がしている。
 昨年は、東高3回生の青木一さんがプロデュースした、原爆体験を語り伝える一人芝居「命ありて」の東京公演準備のお手伝いをさせてもらった。子供にも切符を売り、観に行かせた。
 私は直接の被爆体験もなければ、近親者に被爆者もいないが、長崎に生活したことのあるもののつとめとして、子供に原爆のことを考える時間を持ってもらいたいと思っている。

 8月9日がくると、私は父といた平和公園の抜けるような青空を思い出す。