誰かが「あっ」と叫ぶ。その瞬間すざましい閃光が走り、目が眩む。それは、室内撮影の時に使うマグネシュウムが白い煙をあげながら眼の中で炸裂したような感じであった。
その後、ものすごい突風に体が吹き飛ばされ、何かに押しつぶされて身動きができない。熱い。じりじりと焼ける。嵐が渦巻いて息がつまる。何が起こったのか見当もつかない。私は観念して長い時間を耐えた。
やがて、嵐が去り、「助かった」と思った瞬間、劇しい恐怖に襲われる。よろめきながら立ち上がると、あたりの様子が一変していた。
青々と茂っていた草木が燃えてなくなり、どす黒く斑になった岩肌が不気味に迫り、異様な臭いが鼻をつく。茶褐色の靄が一面を覆い、熱気が体を圧迫する。まるで大きな飴色の瓶の中に閉じこめられたような、そんな思いがした。あわてて岩陰に走り寄ろうとした時、誰かが私に大声で叫んでいる。
「背中が燃えているぞ。」とっさに上衣を脱ぎ捨てると、一目散に壕へ駆け込んだ。
散り散りになっていた瓊中生が壕に集まってくる。顔に火傷を負った者、背中一面焼けただれた者、耳に大怪我をして血を流している者、みんな衣服がぼろぼろになり、まるで乞食の様相を呈していて惨めであった。
同じ木陰で被爆して無傷の者もいた。恐らく木の茂みが熱線を遮ったのではないかと思われる。あちらこちらから、人々がよろめきながら壕の中に逃げ込んで来る。傷ついた人、火傷を負った人、たちまち呻き声で一杯になる。街中は燃え盛って通れないとの話。元気な人は山越えで帰って行った。長崎の地理に疎かった私は、まんじりともしないで壕の中で二夜を明かす。
私も左顔面と両手の甲に火傷を負っており、傷跡に大きな水ぶくれができて、顔全体がはれ上がり、瞼が塞がり、口もほとんど開けられない状態であった。
三日目の朝、意を決して壕を出る。
梁川橋から眺めた街中の様子は、まさにこの世のものとは思えなかった。三菱製鋼所の鉄骨が、ぐにゃぐにゃに曲がって押し倒され、コンクリートの建物は無惨に叩き壊され、斜めに傾いている。見渡す限りの瓦礫の山で、焼け焦げた臭いが立ち込め、白々とした廃墟に変わり果てている。黒焦げの遺体が、あちらこちらに散在し、見るに忍びない光景であった。
足の裏が熱くなるのを気にしながら、とぼとぼと歩く。途中、井樋ノ口に設けられた救護所で簡単な手当を受けたあと、山伝いに浜平から立山を抜け、諏訪神社を通って、やっとの思いで桜馬場の自宅に辿りつくことができた。
8月15日、戦争終結、鳴滝の壕の中で戸板に寝かされたままの状態で玉音を拝す。
なぜか、もの悲しく空しさを感じた。
どこから聞いてきたのか、母が柿の葉を煎じて飲ませてくれたり、姉が親戚に行っては梨をもらい受け、果汁にして飲ませてくれた。
週に一度の病院通いが又、大変なものであった。治療はマーキュロを塗り、黄色の粉をまぶすだけの簡単なもので、ガーゼを剥がす時の痛さといったら二度と忘れるものではない。
大勢の患者が押し寄せていた。そのいずれもが全身に大火傷を負っており、傷口に蛆が湧いている人もいて、痛ましい限りであった。
じっと寝ている私の耳にも変な噂が伝わってくる。髪の毛が抜けた。歯ぐきから血が出た。紫の斑点ができた。そしてみんな死んで行く。私はもうだめではないかと何度思ったか知れない。
9月に入ってのある朝、突然鼻血が出始める。ひどくなるばかりで、喉元にからまった血の固まりを何度も何度も吐き出さなければならなかった。9時間たってやっと治まる。
側で見守る母や姉達は、とても心配そうであったが、私は覚悟していたのか、意外に冷静であった。こうした症状はしばらく続く。
傷と病気の回復は思いのほか手間取り、鳴滝の長崎中学に間借りしていた瓊浦中学に復学したのは12月の初旬であった。
私の顔や手には生々しい傷跡が残り、気が滅入って人前に出るのが億劫であった。
情熱を国に捧げ、学業を捨てて一心に働いたのは一体何のためであったのだろう。私の払った代償はあまりにも大きかった。
後で聞いた話だが、私と同じ場所で被爆した者の内、約半数の者、しかも無傷で元気に帰って行った人達が、原爆症で亡くなったという。私のように傷を受けて養生していた者が、なぜか生き残っており、不思議でならない。放射能障害であることも知らず、或る日、突然病に倒れ、若くしてこの世を去った人達は、さぞ無念であったに違いない。戦争の愚かさに憤りと深い哀しみを覚える。
被爆者というだけで、就職できなかったり、結婚にさしつかえたという話が沢山あると聞く。そんなこともあってか、原爆で心に深手を負った人々は、あまり多くを語りたがらない。戦後52年、戦争を知らない世代が大勢を占め、平和で豊かな日々を送っている。いつまでも平和であって欲しいと願う。
長崎は完全に立ち直り、緑におおわれ、静かなたたずまいを見せている。原爆の悲惨さを知るには、原爆資料館を訪れるか、被爆者の心の奥底にかたくなに閉じこめられている苦々しい体験を聞く以外に方法はないだろう。
これからの世代に何かの役に立つならと考え、私はあえて記憶を辿った。